2010年8月24日火曜日

寺巡り

今日は三件寺を巡った。

国際交流・国際協力支援団体CLUB GEORDIEという
団体に入っていて、そこでモスク、教会、寺を
ウォークラリーするみたいな企画を今作っていて
それに協力してくれるお寺さんを探しに行った。


一件目は撃沈。
自分のプレゼンスキルの無さに失望。


二件目は協力していただけた!!!

三件目も!!!!



二件目に伺ったお寺は曹洞宗のお寺だった。

そこの住職さんのお話を聞いたり自分が質問をしたりで、
今日は地蔵盆にも関わらず一時間半ぐらいお話をしていただいた。


曹洞宗の教義の特徴は「只管打座」だ。
「只管」という意味は「ただひたすら」で、
「打座」は読んで字の如く「座禅に打ち込む」こと。


それを実行することにより、成仏しようと考える。

しかしお寺ではただひたすら座禅をする時間はない。

飯を作らなアカンし、掃除せなあかんし、
なんせやることがたくさんあって、
「只管打座」することは難しい!!!

そして人には役割、仕事がある。

その自分の仕事をただひたすらすることが大事で、
自分の役割を全うする、
今に集中して生活していくことが大事なんだとおっしゃった。

実行に移すことにより、自分の仕事をこなす、つまり善を
増やすことにより成仏するんだと教えてくれた。

生活すべてが、修行なのだ!!!!
なんかかっこいいW


あと一つ。

仏教における救済だ。

仏教で救済って個人的にはピンと来ない。
キリスト教とかイスラム教とかなら、あーって思うけど。

それについての話し。


人間は生きている限り、爪が生えてくる。
同じように煩悩が心から毛のように生えてくる。
爪は長くなったら切らなければならない。

それでは心に生えた煩悩の毛はどうやったら
消えるのだろう?

仏教では煩悩を消すことは不可能だ。
例えば何かを見て美しいと思うと、
それは何かと比べてそれが美しくて、
比べた瞬間に煩悩は生まれるのだ。

だから仏教では煩悩は消えない。
それを爪を切るみたいに
減らすということをする。

煩悩は消せないと言い切った所に
仏教の良い意味での開き直りが
自分に合っていると思ったり。

文章にしても全然だめだー

2010年8月19日木曜日

仏教と死 その2

以前も仏教と死についての日記を書いた。


仏教は死ぬと何かに生まれ変わるから、
不死というのは可能なのか、
そもそも不死は輪廻を否定しているのだから
矛盾しているということを書いた。


それと自分は寺、教会、モスクを回る
ウォークラリー形式のイベントを作っていて、
今日は寺とか教会にアポを取りに行ったり
企画の説明をしたりしに行った。


今日行ったお寺は協力は出来ないが
企画の趣旨に賛同してもらった。
とてもうれしい。

そこで時間があったので、
「仏教における不死とはなんですか?」
と住職の方に聞いてみた。

住職は、教義的な意味でなく、個人として
思うということを前提にすると
「不死とは、自分は死ぬけれども
自分というものは子供や子孫に受け継がれていく。
些細な出来事や出会いでも
その一つ一つが他人や何かに影響し
自分というものは他人の中にあり続ける。
これが不死ではないかと思う」

と答えてくださった。



自分本位の不死ではなく
他人の中に生きるという不死。


仏教はますます魅力的なものだな
と思った。