ベルリンユダヤ博物館に行った。その博物館はアウグストゥスとかアウグスティヌスとか、おれはよー知らんギリシャ時代?の昔からのユダヤ教の資料から、現代に至るまでのユダヤ教の歴史を見ることが出来る。
この博物館は建築的にも有名で、変な形をしていた。おれにはその建物の価値はよー分からんけど、オーディオガイドの前半では建物が建てられた当時どれだけ衝撃的だったかをずっと説明してた。
博物館に入ってすぐアウシュヴィッツへの道、亡命の道そして継続の道とゆう三本の道があった。アウシュヴィッツへの道を行くと、行き止まりになっていた。この構造により、観覧者は不安な気持ちになるらしい。おれはならんかったけど。ワインとビールをその前に飲んでいて、気持ちよくなってたのもあると思うけど。
オーディオガイドが
アウシュヴィッツの道を歩くと、観覧者は不安な気持ちになります
って言ってたけど、その説明は違うよと
ベルリンユダヤ博物館は内容が充実しすぎて何があったかとか逐一書くことは出来ない。
でもベルリンユダヤ博物館を訪れて、自国の歴史のネガティブな面は、博物館とかの日常生活とは離れたところにおいているのではないかということに気づいた。
ワルシャワを訪れた時にも書いたけど、ネガティブなものを見ながら生活するのはやっぱりしんどい。
ネガティブな歴史の証を見たくないから、博物館に入れるんやなと思った。壊すのもそれは違うやろうし、でもずっと生活空間にあるのは嫌だ。だからその歴史の証を博物館に入れる。博物館がたくさんあるということは、行き場を無くしたネガティブな歴史の証を保管するためにあるんかなーと思った。
2012年3月6日火曜日
2012年3月5日月曜日
歴史を残すとは
冷戦中、西側から東側へ行くことは出来たけど、東側から西側へ行くことは困難だった。西側の人が東側の人達と壁のゲートで泣きながら別れを惜しむ、涙の宮殿というところにも行った。
そのゲートは今はもう無くなっていて、立派な展示会場みたいなものがあった。
その展示場でのドイツは徹底した被害者だった。第二次世界大戦が集結して、ドイツは米ソの超大国の冷戦に巻き込まれ、多くのドイツ市民が離れ離れになってしまった。みたいな感じの主張が多かった。(展示物は全て英語の文章でした。my English is very poorです)
アウシュヴィッツやワルシャワではドイツが圧倒的に加害者だった。それがベルリンに来てみたら被害者に代わっていたのがおもしろかった。
もちろん、第二次世界大戦と冷戦は違う。でも、ドイツがその加害者側としての側面を見る機会が本当に少なかった。
反省とは、謝罪とは何なのか。
歴史を残すとは、被害者であったことを声高に主張することなのか。
自分が犯した罪を謝罪して、自己批判をすることが、歴史を残すとゆうことではないのか。
一方では被害者だからと言って、その一方の面だけを主張することは、罪を認めていないのではないか。
日本でも同じことが言える。
と、涙の宮殿を訪れた私はドイツのことをよく知らないけどそう思った。
そのゲートは今はもう無くなっていて、立派な展示会場みたいなものがあった。
その展示場でのドイツは徹底した被害者だった。第二次世界大戦が集結して、ドイツは米ソの超大国の冷戦に巻き込まれ、多くのドイツ市民が離れ離れになってしまった。みたいな感じの主張が多かった。(展示物は全て英語の文章でした。my English is very poorです)
アウシュヴィッツやワルシャワではドイツが圧倒的に加害者だった。それがベルリンに来てみたら被害者に代わっていたのがおもしろかった。
もちろん、第二次世界大戦と冷戦は違う。でも、ドイツがその加害者側としての側面を見る機会が本当に少なかった。
反省とは、謝罪とは何なのか。
歴史を残すとは、被害者であったことを声高に主張することなのか。
自分が犯した罪を謝罪して、自己批判をすることが、歴史を残すとゆうことではないのか。
一方では被害者だからと言って、その一方の面だけを主張することは、罪を認めていないのではないか。
日本でも同じことが言える。
と、涙の宮殿を訪れた私はドイツのことをよく知らないけどそう思った。
60年ぐらいしか経ってないですよ
ベルリン。
ブダペスト、クラクフ、ワルシャワそしてベルリンに入った。
クラクフでアウシュヴィッツとかゲットーを見て、ワルシャワではワルシャワ蜂起博物館とか色んな所を訪れて、そのどれもが衝撃を私に与えた。
衝撃が多過ぎてきっと疲れたんだろう、アンテナを張り巡らすことを忘れていた。ビールばっか飲んでました。
まずベルリンの壁が崩壊して、一番最初に国境が開かれた橋に行った。橋自体は普通の橋だった。東側の橋には壁がまだ残っていた。その壁はもちろん汚い落書きばっかりだった。
ベルリンの壁崩壊直前、直後の詳しい様子について書かれた展示物もあった。しかしその展示物でさえ落書きされていた。
崩壊直後の写真も展示されており、東側の人達は狂喜乱舞して西側に渡っていた。でも西側は失業率が東側より厳しく、全てが東側より優っている訳ではなかった。でもやっぱ壁が崩壊して、家族と会えたり、友人と再会出来たりすることは素晴らしいことだと思った。
ベルリンの壁にしろ、ユダヤ人ゲットーにしろハイポリティクスが市民に悪影響を与え過ぎていることを、大国の指導者達は気にしなかったのだろうか。大きな利益つまり国家利益のために少数の人達を犠牲にしてしまうことについて、どのように思っていたのだろうか
そうゆう時代だったから、とゆうまとめ方はしたくない。原爆投下に対してもそうだ。大きな利益のために、非人道的な兵器を使う。感覚が違うだろうが、その感覚の違いは大問題だとおれは思う。
たった60年ぐらい前やのにこの差はすごいなと思ったのです。
ブダペスト、クラクフ、ワルシャワそしてベルリンに入った。
クラクフでアウシュヴィッツとかゲットーを見て、ワルシャワではワルシャワ蜂起博物館とか色んな所を訪れて、そのどれもが衝撃を私に与えた。
衝撃が多過ぎてきっと疲れたんだろう、アンテナを張り巡らすことを忘れていた。ビールばっか飲んでました。
まずベルリンの壁が崩壊して、一番最初に国境が開かれた橋に行った。橋自体は普通の橋だった。東側の橋には壁がまだ残っていた。その壁はもちろん汚い落書きばっかりだった。
ベルリンの壁崩壊直前、直後の詳しい様子について書かれた展示物もあった。しかしその展示物でさえ落書きされていた。
崩壊直後の写真も展示されており、東側の人達は狂喜乱舞して西側に渡っていた。でも西側は失業率が東側より厳しく、全てが東側より優っている訳ではなかった。でもやっぱ壁が崩壊して、家族と会えたり、友人と再会出来たりすることは素晴らしいことだと思った。
ベルリンの壁にしろ、ユダヤ人ゲットーにしろハイポリティクスが市民に悪影響を与え過ぎていることを、大国の指導者達は気にしなかったのだろうか。大きな利益つまり国家利益のために少数の人達を犠牲にしてしまうことについて、どのように思っていたのだろうか
そうゆう時代だったから、とゆうまとめ方はしたくない。原爆投下に対してもそうだ。大きな利益のために、非人道的な兵器を使う。感覚が違うだろうが、その感覚の違いは大問題だとおれは思う。
たった60年ぐらい前やのにこの差はすごいなと思ったのです。
2012年3月2日金曜日
ポツダム慕情
慕情ってどうゆう意味か知りません。すいません。何となく語呂がいいなーと思って使いました。元ネタはガニメデ慕情ですよ。
とにかく僕はポツダム会談が行われた宮殿みたいなところに行った。ベルリンから50分ぐらい。ベルリンで会談を行おうとしたけど、ベルリンは戦場となっていて、破壊され尽くされていたので、ポツダムで会談を行うことになったらしい。
ゴトトン、ゴトトンと電車が揺れる電車に乗りながらポツダムへ向かった。そしてバスに乗り換え宮殿へ向かう。結構遠い!!!
宮殿に着いた。
そんなに宮殿っぽくなかった。ヨーロッパの建築の多くはは石で出来ていると思うけど、この宮殿はそれではなかった。
土でと木で出来ていた。この旅で見てきた教会や建物は威圧的な建物が多かったけど、この宮殿からは土や木を使っているからか、温かみを感じた。
しかも会議室として価値がある部屋以外はホテルとして現在は利用されていた。これにはテンションがあがった。今度もしドイツに来ることがあったらここに泊まりたい。
そんな感じで宮殿の中に入った。日本語のオーディオガイドがすごく助かった。
通路にポツダム会談の写真があり、それぞれの写真の説明をオーディオガイドで聞いた。その中で、ヤルタ会談とポツダム会談のメンバーの比較をしていた。
ヤルタ会談の写真ではルーズベルト、チャーチル、スターリンが写っていた。米英ソの三巨頭が偉そうに座っていた。でもルーズベルトの顔は真っ黒で、ヤルタ会談の後、死んでしまうのだ。
そしてその次の会談ではルーズベルトの代わりにトルーマンになる。ヤルタ会談の議長国はアメリカなので、議長もルーズベルトからトルーマンに代わる。
二枚目の写真はトルーマン、チャーチル、スターリンになっていた。
そしてポツダム会談では、チャーチルも英国の選挙でまさかの敗戦で、チャーチルからアトリーに代わってしまったのだ。
つまり、戦後世界を決める会談に全て出席したのはスターリンだけなのである。これはつまり、会談の内容を一番理解しているので、交渉の際に非常に有利になるのだ。
事実、ポツダム会談の前にあったヤルタ会談ではソ連に不利な条項が多くあったが、スターリンはほれをソ連に有利なように交渉をすることが出来たのだ。
そしてとうとう、その会談が行われた部屋に入ることが出来た。大きな吹き抜けのような天井で、窓もその吹き抜けぐらい長く、大きかった。
その窓の前に円形の大きなテーブルがあり、その真ん中にそれぞれ米英ソの小さな国旗が掲げられていた。
入った瞬間、背筋がゾクゾクとするような感覚がした。ここでヨーロッパの国境と日本の処理が行われたのだ。それから60年ぐらいたった部屋に自分がいるんだ。
そしてここから冷戦も始まったんだなーと。私は国際関係的なゼミだったので、とって感慨深い部屋だった。
その他にも、ポツダム会談の際に米英ソの代表団の控室にも入ることが出来た。ここは本当に国際関係勉強してる人にとってテンションがあがらざるを得ん宮殿だと思う。
控室の部屋割りもおもしろかった。
ポツダム会談の部屋には二つの扉があり、片方はソ連、もう片方は米英の部屋に通じている。この微妙な心配りがすごく国際関係を勉強していて大事だと思ったので、自分は本当に交渉が行われていたんだと、自分はそこにいるんだと強く実感出来た。
宮殿はそんな感じだった。
宮殿の外は庭園があって、夏に来たらめっちゃ綺麗やろなーって思った。
いやーしかしここで日本の戦後が決まったんやなと思ったらほんまに考えされた。
ハイポリティクスとゆう言葉を意識せざるを得んかった。
まぁそんな感じで最高でした、ポツダム観光。
ポツダムのアディダスストアで黒のナイキの靴を衝動買いしたことは秘密である。
おわり
とにかく僕はポツダム会談が行われた宮殿みたいなところに行った。ベルリンから50分ぐらい。ベルリンで会談を行おうとしたけど、ベルリンは戦場となっていて、破壊され尽くされていたので、ポツダムで会談を行うことになったらしい。
ゴトトン、ゴトトンと電車が揺れる電車に乗りながらポツダムへ向かった。そしてバスに乗り換え宮殿へ向かう。結構遠い!!!
宮殿に着いた。
そんなに宮殿っぽくなかった。ヨーロッパの建築の多くはは石で出来ていると思うけど、この宮殿はそれではなかった。
土でと木で出来ていた。この旅で見てきた教会や建物は威圧的な建物が多かったけど、この宮殿からは土や木を使っているからか、温かみを感じた。
しかも会議室として価値がある部屋以外はホテルとして現在は利用されていた。これにはテンションがあがった。今度もしドイツに来ることがあったらここに泊まりたい。
そんな感じで宮殿の中に入った。日本語のオーディオガイドがすごく助かった。
通路にポツダム会談の写真があり、それぞれの写真の説明をオーディオガイドで聞いた。その中で、ヤルタ会談とポツダム会談のメンバーの比較をしていた。
ヤルタ会談の写真ではルーズベルト、チャーチル、スターリンが写っていた。米英ソの三巨頭が偉そうに座っていた。でもルーズベルトの顔は真っ黒で、ヤルタ会談の後、死んでしまうのだ。
そしてその次の会談ではルーズベルトの代わりにトルーマンになる。ヤルタ会談の議長国はアメリカなので、議長もルーズベルトからトルーマンに代わる。
二枚目の写真はトルーマン、チャーチル、スターリンになっていた。
そしてポツダム会談では、チャーチルも英国の選挙でまさかの敗戦で、チャーチルからアトリーに代わってしまったのだ。
つまり、戦後世界を決める会談に全て出席したのはスターリンだけなのである。これはつまり、会談の内容を一番理解しているので、交渉の際に非常に有利になるのだ。
事実、ポツダム会談の前にあったヤルタ会談ではソ連に不利な条項が多くあったが、スターリンはほれをソ連に有利なように交渉をすることが出来たのだ。
そしてとうとう、その会談が行われた部屋に入ることが出来た。大きな吹き抜けのような天井で、窓もその吹き抜けぐらい長く、大きかった。
その窓の前に円形の大きなテーブルがあり、その真ん中にそれぞれ米英ソの小さな国旗が掲げられていた。
入った瞬間、背筋がゾクゾクとするような感覚がした。ここでヨーロッパの国境と日本の処理が行われたのだ。それから60年ぐらいたった部屋に自分がいるんだ。
そしてここから冷戦も始まったんだなーと。私は国際関係的なゼミだったので、とって感慨深い部屋だった。
その他にも、ポツダム会談の際に米英ソの代表団の控室にも入ることが出来た。ここは本当に国際関係勉強してる人にとってテンションがあがらざるを得ん宮殿だと思う。
控室の部屋割りもおもしろかった。
ポツダム会談の部屋には二つの扉があり、片方はソ連、もう片方は米英の部屋に通じている。この微妙な心配りがすごく国際関係を勉強していて大事だと思ったので、自分は本当に交渉が行われていたんだと、自分はそこにいるんだと強く実感出来た。
宮殿はそんな感じだった。
宮殿の外は庭園があって、夏に来たらめっちゃ綺麗やろなーって思った。
いやーしかしここで日本の戦後が決まったんやなと思ったらほんまに考えされた。
ハイポリティクスとゆう言葉を意識せざるを得んかった。
まぁそんな感じで最高でした、ポツダム観光。
ポツダムのアディダスストアで黒のナイキの靴を衝動買いしたことは秘密である。
おわり
2012年3月1日木曜日
感想ofドイツ
高校に入って、それまでやってた野球を辞めた。その時ぐらいにWikipediaを知り、著名人をwikiりまくった。
その時ビートたけしとかおれが好きな著名人はほとんどが偏差値の高い学校に行ってたことを知った。勉強をそれまで全くしたことがなかったので、これはかなり衝撃で、受験勉強をする時の動機になった。
勉強するにはやはり難しい本を読まなければと思ったおれは、なぜかWikipediaでしった、ヒトラーの「わが闘争」を読もうと思い立った。遅れてきた中2病だ。
何はともあれ三巻ぐらいあった「わが闘争」を高2ぐらいまでには読み切った。「わが闘争」のドイツのイメージをいまのドイツに当てはめたりはしないけど、「わが闘争」の内容を実現させた後のドイツがどのようなものかについてすごく興味があった。だから自分がドイツを観光したことはすごく感慨深いものなのである。
ドイツ。
大学になってから少し世界が広がり、ドイツはヨーロッパ随一の経済大国ということを知った。現在ユーロ危機の真っ最中だが、どの国もドイツの経済に頼りにしているみたいな記事を目にしたこともあり、ヨーロッパの経済大国とは一体どんなものなんだろうとわくてかしながらワルシャワを発った。
ワルシャワからベルリンまで電車で5時間弱ぐらいだった。山も大きな川も無かった気がする。地続きで国境が接しているというのは自分には一生分からんような気がした。
電車から横目で見ていた風景がだんだん都市っぽくなってきた。そろそろベルリンかなーと思って街をじーっと見てみると、落書きや小屋みたいなバラックの群が見えた。まぁそうゆう地域もあるかと思って見てたけど、線路沿いにそうゆうバラックの群が続いていた。日本にもそうゆうのがあると思うけど、なんか違って見えた。
ドイツは経済大国ってゆう先入観があったからかな。でも経済大国ってゆうことは逆に競争が激しいとゆうことやから、まぁそれが経済大国としての運命かーと思った。
でもそれにしても落書きが多かった。なんでか分からんけど、ほんまに落書きだらけ。駅とか、電車の中にまで落書きだらけだった。ほんまに汚いと思った。
ヨーロッパの経済大国がこれかよ!みたいな。おいおい。大丈夫かよヨーロッパっておれは思った。
アジアの世紀が始まる予感がバシバシと感じられた。
その時ビートたけしとかおれが好きな著名人はほとんどが偏差値の高い学校に行ってたことを知った。勉強をそれまで全くしたことがなかったので、これはかなり衝撃で、受験勉強をする時の動機になった。
勉強するにはやはり難しい本を読まなければと思ったおれは、なぜかWikipediaでしった、ヒトラーの「わが闘争」を読もうと思い立った。遅れてきた中2病だ。
何はともあれ三巻ぐらいあった「わが闘争」を高2ぐらいまでには読み切った。「わが闘争」のドイツのイメージをいまのドイツに当てはめたりはしないけど、「わが闘争」の内容を実現させた後のドイツがどのようなものかについてすごく興味があった。だから自分がドイツを観光したことはすごく感慨深いものなのである。
ドイツ。
大学になってから少し世界が広がり、ドイツはヨーロッパ随一の経済大国ということを知った。現在ユーロ危機の真っ最中だが、どの国もドイツの経済に頼りにしているみたいな記事を目にしたこともあり、ヨーロッパの経済大国とは一体どんなものなんだろうとわくてかしながらワルシャワを発った。
ワルシャワからベルリンまで電車で5時間弱ぐらいだった。山も大きな川も無かった気がする。地続きで国境が接しているというのは自分には一生分からんような気がした。
電車から横目で見ていた風景がだんだん都市っぽくなってきた。そろそろベルリンかなーと思って街をじーっと見てみると、落書きや小屋みたいなバラックの群が見えた。まぁそうゆう地域もあるかと思って見てたけど、線路沿いにそうゆうバラックの群が続いていた。日本にもそうゆうのがあると思うけど、なんか違って見えた。
ドイツは経済大国ってゆう先入観があったからかな。でも経済大国ってゆうことは逆に競争が激しいとゆうことやから、まぁそれが経済大国としての運命かーと思った。
でもそれにしても落書きが多かった。なんでか分からんけど、ほんまに落書きだらけ。駅とか、電車の中にまで落書きだらけだった。ほんまに汚いと思った。
ヨーロッパの経済大国がこれかよ!みたいな。おいおい。大丈夫かよヨーロッパっておれは思った。
アジアの世紀が始まる予感がバシバシと感じられた。
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