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2012年3月10日土曜日

ウィーン ただの観光地巡り

ハプスブルク家の王宮や離宮などがウィーンにはある。
これまでしめっぽい文章ばっか書いてたけど、ウィーンは死ぬほど観光した。
王宮博物館とか美術史博物館とか軍事博物館にも行った。

そこで思ったことを適当に書こうと思う。
王宮博物館は最初はほんまにしょうもなかった。
金銀銅の食器とかフォークがずらーと並べてあって、オーディオガイドでそれを惰性で聞いていただけだった。でもナポレオン戦争後の解説から後がとてもおもしろかった。

オーストリアはナポレオン戦争であほほど軍事費を使ってしまい、戦争で必要な金銀銅が無いから食器とかを溶かして兵器にしたらしい。てゆーかそんなに食器のあまりがあったんかよと思った。実際にすごくあった。もう一体何に使うんっていうやつばっかだった。

これが30メートルぐらいあったらしい。これを机の真ん中において、花とかをそえてもうよくわからんけど、こんなにキンキラもんのモノがたくさんあった。庶民がこんな生活を貴族が行っていることを知ったらそら毎日飯食うのに困る市民が革命起こしたくなるわと思った。革命に共鳴出来てしまった。
そしてオーディオガイドを聞いているとこんなことを言っていた。

ナポレオン戦争で軍事費を賄うために金銀の食器を売ったり武器に加工したけど、1814,15年に行われたウィーン会議でまた豪華な食器セットが必要になったから新しい食器を買いました。それがこれです。

みたいなことを言っていた。ウィーン会議とは安全保障を勉強する上で絶対必要な概念である、バランスオブパワーが生まれた重要な会議である。それは大国が戦争を避けるために、軍事力の均衡を壊さないというものである。しかし、これには問題があって、小国は大国の政治ゲームの犠牲になってしまうのだ。大国のしかも限られた人しか関与出来ないというまさにハイポリティクスの典型的な例だ。
でまぁその会議をするために金銀が使われたんですよ。各国の大使とかVIPをもてなすために。でも一番困ったのは誰かってそんなん市民に決まってるだろーナポレオン戦争が始まってから徴兵制も始まったんやしさ。一番被害を受けたのは市民だろーなんかこの博物館に来て豪華な食器とかを見てすげー豪華ーなんて言えるような気になれなかった。なんかハイポリティクスってほんまに終ってるなーと思った。なんかなーと思いながら国立博物館のそういう食器のゾーンを終えた。

そんで次にあったとこは、Sisi博物館というものだった。シシーというのはこの人。
まぁ急にハプスブルク家に嫁いじゃった田舎の貴族みたいな女の人。宮廷の堅苦しい生活に嫌気がさして公務を放棄して旅行にふけっていたんやって。その博物館ではその人生がすごくドラマチックに紹介されていた。めっちゃ綺麗で可愛い女の子が急に王家に嫁いで、姑に嫌われ、子供も自殺してしまったりする。彼女は自由な人間だから旅行を愛したのだー!みたいな。子供の自殺とかそれはすごく悲しいと思う。子供が自殺とか辛いけど、だからと言って一人で贅沢な旅行をしていいんか??博物館では宮廷の暮らしが嫌になって旅行に出たとかってなってたけど、ほんまに嫌なら辞めてしまえばいいし、オーストリアの税金を使って自分は傷心旅行をしてこいつは一体なんなんって思った。この人は顔面とスタイルが良いということですごく有名で、可愛いから人気でるのはいいことやけど、やってることはただのわがままやんけって思った。

なんか文句ばっかり言ってるけど、すごく楽しんでましたウィーン

そんでその二個の博物館行って腹減ったから王宮博物館と併設されてるようなカフェに入った。なんかチキンをどないかした料理を頼んでめっちゃうまかった。腹減りすぎて写メるのを忘れてしまっていた。ほんでアップルパイも食べた。これまで食べた食べ物の中で一番おいしかった。それはビールをいっぱい飲んでて酔ってたからかもしれんけど、めっちゃおいしかった。ほんまに今すぐ食べたいぐらいおいしかった。
その日はそんな感じ。
貴族や王家とかはそら潰されるわと実感出来た。

2012年3月9日金曜日

悲しみのウィーン

昨日、3月8日に帰国しました。
でもまだ書いていないことがあるので、書く。


ベルリンに行った後プラハにも寄ったけど、観光地ばっかり巡ったし、プラハをぶらつく日が一日しか無かったから、そこまで書くことが無い。プラハ城がとんでもなく綺麗だったけど、プラハ城の衛兵の交代式がへぼすぎで話しならんかったことぐらい。だから、プラハの次に行ったウィーンのことを書こうと思う。


ウィーンはハプスブルク家とかマリー・アントワネットとかマリア・テレジアとかの王家がすごく有名だと思う。緑豊かで王家の統治が続いたーみたいなイメージがある。自分もそういうイメージしか持っていなかった。でも、中欧に旅行に行くことを決めて、それまでのウィーン観を揺さぶる本に出会った。それが観光コースではないウィーンって本だ。




この本はウィーンはナチスの政策に共鳴し、ウィーンはナチスの政策を受け入れていたということを書いている。実際に読んでみて、衝撃的だった。
ウィーンには多くのユダヤ人が戦前には住んでいて、この本によると、

1938年のドイツとの合邦当時、ウィーンの新聞、銀行、服飾産業の四分の三はエリートユダヤ人の手に握られていました。

とある。これは合邦当時とあるがソースが明らかではない。もしかしたらナチスがオーストリア人を騙すためにウソをついたかもしれない。ユダヤ人はオーストリアで社会の元凶であるというレッテルを張られてしまったのだ。新聞や銀行や服飾産業の四分の三をユダヤ人が占めていたとは自分は考えられなかったけど、こういう数字が通用してしまった背景には実際にユダヤ人の方が豊かな生活を送っていたのだろう。それも人種差別を行ってしまうぐらい生活に困っていたのだろう。



これはユダヤ人が道端を掃除しているシーン。
これはナチスの高官をどっかのユダヤ人が殺して、その見せしめにゲッペルスがユダヤ人を襲撃するように命令してそこでナチスが襲撃ーこの本によるとウィーンの市民も襲撃したらしいーして、その後にユダヤ人に道路を這いつくばって掃除するように命令した。襲撃でユダヤ人の家の窓ガラスが割れ、それが反射することから、その事件は水晶の夜事件と呼ばれているらしい。

この写真は実際に自分が撮った写真。この像はウィーンの王宮や国立オペラ劇場の間にある。街のど真ん中にあるのだ。周りには観光客がたくさんいた。でもこの像があることを知っている観光客は少ないだろう。実際に、この像はなにかのモニュメントに隠れているようにさえ見えた。ウィーンの人もこんな像を見たくないんだろうなと思った。


この本には色んなことがあった。引用していたらいつまでも書き終わらないから、興味を持った人は買ってみて欲しい。
オーストリアにはナチスの協力者がたくさんいて、公に厳然と批判してしまうと、その協力者や共感者が地下に潜ってしまうので、そういうことは避けてきたらしい。

うーん書くことがまとまらない。
とりあえずこれが新王宮の写真


ここで合邦当時ヒトラーが演説をした。
大きい広場がその前にあるねんけど、それを埋め尽くすぐらいの人が集まった。
鉤十字の旗を振りまきながら。
wien hitlerで調べたらいっぱい画像が出てくるよ


ウィーンにはナチスの政策を肯定する人が1990年代にはウィーンで38%、ザルツブルクでは50%ぐらいいたらしい。
自分はこのことにどうしたものかと思った。でも思ってみたら、日本の戦前の政策を肯定する日本人も50%ぐらいいるからなーとか思った。それならしゃーないか、人のこと言えんなと一瞬思ったけど、それは違う。
多くの人が肯定するからと言って、それが正しいなんて思ってはいけない。
それこそまたナチスを復活させてしまうと思い直した。
そんなウィーン一発目のブログ

2012年3月5日月曜日

60年ぐらいしか経ってないですよ

ベルリン。
ブダペスト、クラクフ、ワルシャワそしてベルリンに入った。

クラクフでアウシュヴィッツとかゲットーを見て、ワルシャワではワルシャワ蜂起博物館とか色んな所を訪れて、そのどれもが衝撃を私に与えた。
衝撃が多過ぎてきっと疲れたんだろう、アンテナを張り巡らすことを忘れていた。ビールばっか飲んでました。


まずベルリンの壁が崩壊して、一番最初に国境が開かれた橋に行った。橋自体は普通の橋だった。東側の橋には壁がまだ残っていた。その壁はもちろん汚い落書きばっかりだった。

ベルリンの壁崩壊直前、直後の詳しい様子について書かれた展示物もあった。しかしその展示物でさえ落書きされていた。
崩壊直後の写真も展示されており、東側の人達は狂喜乱舞して西側に渡っていた。でも西側は失業率が東側より厳しく、全てが東側より優っている訳ではなかった。でもやっぱ壁が崩壊して、家族と会えたり、友人と再会出来たりすることは素晴らしいことだと思った。


ベルリンの壁にしろ、ユダヤ人ゲットーにしろハイポリティクスが市民に悪影響を与え過ぎていることを、大国の指導者達は気にしなかったのだろうか。大きな利益つまり国家利益のために少数の人達を犠牲にしてしまうことについて、どのように思っていたのだろうか
そうゆう時代だったから、とゆうまとめ方はしたくない。原爆投下に対してもそうだ。大きな利益のために、非人道的な兵器を使う。感覚が違うだろうが、その感覚の違いは大問題だとおれは思う。
たった60年ぐらい前やのにこの差はすごいなと思ったのです。

2012年3月2日金曜日

ポツダム慕情

慕情ってどうゆう意味か知りません。すいません。何となく語呂がいいなーと思って使いました。元ネタはガニメデ慕情ですよ。


とにかく僕はポツダム会談が行われた宮殿みたいなところに行った。ベルリンから50分ぐらい。ベルリンで会談を行おうとしたけど、ベルリンは戦場となっていて、破壊され尽くされていたので、ポツダムで会談を行うことになったらしい。

ゴトトン、ゴトトンと電車が揺れる電車に乗りながらポツダムへ向かった。そしてバスに乗り換え宮殿へ向かう。結構遠い!!!


宮殿に着いた。
そんなに宮殿っぽくなかった。ヨーロッパの建築の多くはは石で出来ていると思うけど、この宮殿はそれではなかった。
土でと木で出来ていた。この旅で見てきた教会や建物は威圧的な建物が多かったけど、この宮殿からは土や木を使っているからか、温かみを感じた。

しかも会議室として価値がある部屋以外はホテルとして現在は利用されていた。これにはテンションがあがった。今度もしドイツに来ることがあったらここに泊まりたい。


そんな感じで宮殿の中に入った。日本語のオーディオガイドがすごく助かった。
通路にポツダム会談の写真があり、それぞれの写真の説明をオーディオガイドで聞いた。その中で、ヤルタ会談とポツダム会談のメンバーの比較をしていた。

ヤルタ会談の写真ではルーズベルト、チャーチル、スターリンが写っていた。米英ソの三巨頭が偉そうに座っていた。でもルーズベルトの顔は真っ黒で、ヤルタ会談の後、死んでしまうのだ。
そしてその次の会談ではルーズベルトの代わりにトルーマンになる。ヤルタ会談の議長国はアメリカなので、議長もルーズベルトからトルーマンに代わる。

二枚目の写真はトルーマン、チャーチル、スターリンになっていた。

そしてポツダム会談では、チャーチルも英国の選挙でまさかの敗戦で、チャーチルからアトリーに代わってしまったのだ。

つまり、戦後世界を決める会談に全て出席したのはスターリンだけなのである。これはつまり、会談の内容を一番理解しているので、交渉の際に非常に有利になるのだ。
事実、ポツダム会談の前にあったヤルタ会談ではソ連に不利な条項が多くあったが、スターリンはほれをソ連に有利なように交渉をすることが出来たのだ。


そしてとうとう、その会談が行われた部屋に入ることが出来た。大きな吹き抜けのような天井で、窓もその吹き抜けぐらい長く、大きかった。
その窓の前に円形の大きなテーブルがあり、その真ん中にそれぞれ米英ソの小さな国旗が掲げられていた。


入った瞬間、背筋がゾクゾクとするような感覚がした。ここでヨーロッパの国境と日本の処理が行われたのだ。それから60年ぐらいたった部屋に自分がいるんだ。
そしてここから冷戦も始まったんだなーと。私は国際関係的なゼミだったので、とって感慨深い部屋だった。


その他にも、ポツダム会談の際に米英ソの代表団の控室にも入ることが出来た。ここは本当に国際関係勉強してる人にとってテンションがあがらざるを得ん宮殿だと思う。

控室の部屋割りもおもしろかった。
ポツダム会談の部屋には二つの扉があり、片方はソ連、もう片方は米英の部屋に通じている。この微妙な心配りがすごく国際関係を勉強していて大事だと思ったので、自分は本当に交渉が行われていたんだと、自分はそこにいるんだと強く実感出来た。


宮殿はそんな感じだった。
宮殿の外は庭園があって、夏に来たらめっちゃ綺麗やろなーって思った。

いやーしかしここで日本の戦後が決まったんやなと思ったらほんまに考えされた。
ハイポリティクスとゆう言葉を意識せざるを得んかった。
まぁそんな感じで最高でした、ポツダム観光。

ポツダムのアディダスストアで黒のナイキの靴を衝動買いしたことは秘密である。

おわり

2012年2月19日日曜日

ヨーロッパの国境、民主主義

16日になんやかんやありまくってハンガリーに着いて、ちょろっとハンガリー観光して今ポーランドにいます

ハンガリーとスロバキア、スロバキアからポーランドの国境を越えた。地続きになってて、国境を越えた感じなんか全く無くて、言われなければ気付かないくらいあっさり国境を越えた。こんなに広大な平たい土地があったら、そりゃヨーロッパを統一することは不可能だなと思った。ずっと続く地平線。領土を大きくしたいっていう野心的な指導者にとっては、こころ惹かれるものだったんだろうなと思った。そんな野心は戦争をもたらすだけだから、間違った思いではあるけれど。

グロティウスが領土に基づく国際法をつくった、国際政治のあり方を変えたと国際法の授業で学んだ。でもiPhoneとかGPSがない時代で意味のある使い方をしていたと考えると、先人はやっぱりすごいなとおもった。

自分が見たスロバキアは雪で覆い尽くされていた。民家がぽつんぽつんとあって、しばらく雪だけの景色が続いて、またぽつぽつと民家があるっていう風景だった。でもバスの中で寝てたから、実際はもっと都市化してるのかもしれんけど

自分は自己実現とかでヨーロッパ中が溢れかえっているのかと思ってたけど、それはただのステレオタイプなんだなと思った。スロバキアのぽつんとした民家に生まれたらチャンスはやっぱ減る気がする。


領土の境界線、僻地に住む人びと。これが主権国家というものかと思った。ヨーロッパにこんな国があるのかと思った。

しかしただの勉強不足です
ただの感想です

2011年6月30日木曜日

卒論計画発表 中国現代政治

今日ゼミの教授に卒論のことを聞いたら、好きなようにやっていいよと言われた。
きっとこの調子ならゼミで卒論の計画発表とか無いだろうから、ブログで一人発表会をしたろうと思って、ブログを書いている。
始めます。
つーかむしろ動画とかでプレゼン動画撮って、載っけてやろうかなとか思ったけど、ようつべとかustのアカウント持ってないからやっぱブログ。


まず問題提起

現在の中国は経済成長が著しく、その成長を背景にして軍備増強に多いに力を入れている。軍備増強に伴うかのように人民解放軍も同じように台頭してきた。その結果が先に起こった尖閣諸島漁船衝突問題であり、現在係争中の東シナ海の領土問題である。
中国の東アジア進出に対し、アメリカも反応を起こした。フィリピンやベトナムと共同演習を行い、東アジアでプレゼンスを保とうとしている。しかしそのアメリカの動きに対し、中国は批判を繰り返す。

アメリカの経済的プレゼンスが降下するなかで、中国は空母を建艦するなど勢いは留まる所を知らない。

唯一の超大国アメリカとしては、これまで通りインド洋と太平洋の安定を望んでいる。
しかし一方の中国は、東シナ海を自国の領土にしたいという意図が丸見えだ。
このように両者の「利益」は異なっている。利益が共通ではないのだ。
これでは、東アジアの安定が崩壊してしまうのではないかということを、問題提起している。


共通の利益という視点から、過去の例を見る。

まずは勢力均衡による安全保障である。説明は面倒なので、wikiとかで確認してください。
ここでのポイントは各国の外交使節団が異なる思いや利益を持ちながらも、一つの安全保障体制を構築出来たという点である。各国は戦争をもう二度と起こしたくはなかった。そして、何らかの安全システムを構築出来れば、二度と戦争を起こさずに済むという認識を各国の使節団はしていた。その戦争を避けたいという、「共通の利益」があったからこそ、勢力均衡による安全保障体制が生まれたのである。実際にウィーン体制によって、大きな戦争は避けることが出来たのである。

もう一つは冷戦のシステムである。冷戦は米ソ間で交流なんてないだろうと思っている人がたくさんいると思う。しかしそんなことはなく、週に一回米ソの外交官か誰かがMTGをしていたのである。両者はキューバ危機以降、両者は核戦争は何としてでも避けなければならないという認識を持つようになる。キューバ危機以降、米ソはホットラインを作り、いつでも大統領同士が電話を出来るシステムを作った。冷戦中に核戦争が行われなかった背景には、両者の「共通の利益」である核戦争を避けたいという思いがあったからである。


これに対し、現代の米中関係は一体どんなものなのだろうか。
米中には「共通の利益」はあるのだろうか。またはその「共通の利益」を米中で作り上げるこてゃ出来るのだろうかということを研究しようと思って、先生に言った。

そしたら、中国内部が分裂していて、交渉なんて出来ないという指摘を頂いた。
確かに中国共産党は戦争を引き起こしたくないのかもしれない。しかし、共産党が軍部を統制出来ていないのだ。今の中国は満州事変を引き起こした日本帝国陸軍と同じ状況なのである。
先の尖閣諸島の事件や領土問題も海軍が暴走したから起こったのだ。
今や中国はシビリアンコントロールさえままならないのである。そこで、共産党、海軍、陸軍それぞれが考える外交政策について研究したらいいのでは?という提案を受けて、自分としてもそれを研究するつもりです。


このブログは誰が読むのだろうかーーw

2011年5月22日日曜日

戦争と努力と殺害と英雄

昨日ひょんなことからシモ・ヘイヘという人の存在を知った。
wikiで調べたら載ってるので見てください。
(リンク貼ってもいいかどうか分からんので)


ヘイヘは軍人で冬戦争と呼ばれる戦争の際に、500人を殺害した。
軍人なる前は狩猟してて、だから鉄砲撃つ技術も高かったらしい。


500人も殺害したとかどんな人やねんって思うかもしれない。
ちょっと頭おかしなってもてるんちゃうかとか
人殺すことが好きなのかって思われるかもしれない。
でもおれはそう思えない。


出版社がこの人にインタビューした時にインタビュアーが
「500人を超える人を殺害して後悔はないのか」
と聞かれた時ヘイヘは
「命令されたことを可能な限り実行しただけだ」
と答えた。

そして狙撃の秘訣を聞かれるとヘイヘは
「練習だ」
と答えた。


この人は本当に人を殺したのか?
この人は与えられた任務に対してそれ以上の結果を出した。
それはこの人が優れているということだろう
しかも狙撃の秘訣は練習って...
ヘイヘは結果を出すために努力をしたんだろう。そして結果も出した。
だからその努力が人を殺すための努力でも、何か尊敬してしまうのだろう。

戦争の英雄っていうのは得てしてそういうものなのかもしれない。
ある一定の数を殺害したら英雄になるっていう格言もあったし。

何かに向かって邁進している姿がかっこいいと思ってまうんやろな
あと、努力を励行するところとかかっこいいと思ってまうよな

2010年12月10日金曜日

沖縄県の基地訪問と学生と交流したこと

12月の5日から7日までゼミで沖縄に行ってきた。

その自分にとっての目的は
沖縄にある基地で海兵隊のブリーフィングを受けること
沖縄国際大学(普天間基地のすぐ近くにある大学)の生徒たちから基地問題についてどう思っているかを聞く
というもの。


ゼミ旅行の直前に北朝鮮が韓国に砲撃を行ったので、当初予定していたキャンプハンセン、コートニーに行けなくなってしまった。かなり緊張しているんやろうなー
そうゆうこともあって、キャンプフォースターという米軍基地に自分たちは行った。
沖縄に行くのは初めてだったので、騒音とかは全く想像がつかなかった。
その分、何に対しても衝撃的なことが多かった。


沖縄についてまず、安保の丘というところに行く。
安保の丘とは普天間基地が見える小さい山みたいなところ。

那覇空港からそこまで向かったのだけれど、町並みが本土とはなんとなく違う。
一個一個の建物が大きい。
ガストがでかいし、モスがでかい。
博物館みたいなやつもでかい。
高速道路がめっちゃきれい。
これは一体どうゆうことだろう。
土地が余っているということもあるんだろうけど、ほんまにそれだけなのかな〜

安保の丘に到着して普天間基地と、住宅街が本当に近いんだなと実感。
でも安保の丘にある普天間基地について説明しているボードみたいなのを発見。
その中には、普天間基地は1945年に完成したと書いてある。
つまり基地があるところに沖縄の人たちは家を建てたと考えることが可能だ。

沖縄って一体どうなっているんだ?と思いながら安保の丘を後にした。
そのあと、ソーキそば、三枚肉のどんぶりを食う。絶品だった。

食後、また衝撃的なことがあった。
不動産屋によくある3LDKが○○円みたいなことを書いてある看板みたいなところに
「軍用地あります。お気軽にお問い合わせください」って」看板がある。
軍用地は米軍基地から補助金が出る。
補助金ってゆうても思いやり予算なんやけど。
基地があって沖縄人は困っているのではないのか?


またも、うーむと考えながらソーキ蕎麦屋を後にする。
次はひめゆりの塔などがあるところに向かう。
ひめゆりの資料館が割と小さい。割とこじんまりしていた。なんで小さいん??
ひめゆりの資料館から少し離れた所にある、沖縄平和祈念資料館というところに向かった。
資料館がばかでかい。ものすごく広い土地がある。なんでこんなに広い土地があるのか??しかも住宅地から離れているのに。


これはおかしいぞと確信しながらホテルに向かった。
夜はひたすら食って飲んだ。ハブ酒と泡盛に完敗した。泡盛とハブ酒うまいけど、おれとの相性は悪いなー
前回も泡盛飲んだときは死んだし。クレープ屋のバイト一時間で帰ってもたし。

次の日!
海兵隊の人からブリーフィングを受ける。
日本人の考える平和と海兵隊が考える平和ってゆうのは大分違う。
海兵隊の人の平和は「自分たちが作っていくもの、平和に向かっている途中で壁にぶつかったらその壁をぶっ壊してなるべく早く平和に辿り着こうとする。それが海兵隊の平和だ」って言うてた。この人たちの方がほんまに自分から平和をつかみ取ろうとしている。おれらは平和を望んでいるけど実際に行動を起こしているのだろうか。

海兵隊の広報担当の方も来てくださった。海兵隊の活動を広めるためにフェイスブックもしているらしい。twitterもしようかなってゆうてた。それだけじゃなくて、小学生に英語を教えにいったりもしている。一緒に運動会みたいなのをしてる写真もあった。機関誌とかも使って必死に活動しているというのが本当に実感出来た。
一体自分は平和のために何をしているのかと悲しくなった。

次は沖縄国際大学の人たちとの交流。
沖縄のメディアの恐ろしさ。自分たちがどうしたいかが分からない。
ここではあまりかけないので、気になる方は直接僕に聞いてください。

三日目は観光だ。
国際通りに行って、ハブ酒とかを買った。
一番びっくりしたことは、県庁がでかい。
これはもう確信犯すぎるやろ。


プンプンするぜ

2010年11月23日火曜日

ピースイベント感想

11月20日に「ピースイベント Noclear Nuclear」ってゆうイベントを自分が所属しているCLUB GEORDIEで行った。

このイベントは核問題について考えるイベントで、核問題の是非について意見を持つのではなく、このイベントを通じて自分の平和への思いを確認するってゆうイベントだった。

核問題を取り扱う時に、核についての是非の議論に費やした議論がめっちゃ長かった。
当然核問題の是非についての答えなんか出なかった。
だからイベントでは中立の意見を保とうってことになった。


イベントの概要はスタッフが事前に準備した核問題の過去、現在、未来の資料をプレゼンをする。
その後に実際に被爆した方にインタビューした映像を流して、全体のシェアして、ピースメッセージを書くってゆう流れだった。


参加者の人たちがイベント終わった後に知識を増やせることが出来た。
核問題について考える大きな一歩にはなったと思う。
でも何かもの足らないと思った。

イベント会場では広島の平和資料館にある当時の写真や、被爆者の写真をポスターとして展示をした。
その写真は凄惨なものだった。
写真だけ見るだけでは広島が被害者のように映ってしまう。

でも日本も諸外国に残酷なことをたくさんしてきた。
なのに、日本は被爆国だからといって被害者のように振る舞ってもいいのか?
きちんとそのことに日本は向き合っているのか?
なんで戦争が起きるようなシステムになってしまったのかをもっと伝えるべきではないのか?
ってスタッフからイベント終わりに話した。
ほんまそうやんな。イベントの内容が薄かった。すごくもったいないと思った。

参加者の人から、
「遺族にとって被害者の死因は何でもいいんだ。死んだという事実が重要で、死因はそこまで重要じゃないんだ。原爆で死んでも、戦って新でも同じことなんだ」
っていう意見を聞いた。

これは新しい視点だった。文句も反論も出来ずに黙ってしまった。
続けてその人はこうゆうことも言った。

「第二次世界大戦では、明治維新の人たちからアクターが完全にかわって、新しい世代があの戦争を率いた。結果的にその戦争という道を選んでしまって、それは失敗に終わってしまったけど。でも今も、第二次世界大戦を経験している政治家なんかいない。これからまた新しい世代になる自分たちがどう行動するかで世界、日本はかわる」って意見を言った。
これも共感した。未来を作るのはやっぱり自分たちなんだってことがわかった。
自分でもちょっと自意識過剰じゃないのかなって思うw
けど一人一人の役割はこれから増えるはず!

2010年10月30日土曜日

「アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ」 モフセン・マフルバフ

この本はちょっと古い。
9.11が起こる前の2000年に書かれてる。
自分はこれまでアフガニスタンに関して知っていたことは

・イスラム原理主義の巣窟
・女性の権利が全くない
・難攻不落の国

ってゆうことしか知らなかった、というかこうゆう偏見、イメージを持っていて、
ネガティブなイメージが起きてしまった原因については全く知らなかったし、考えもしなかった。
大方宗教が絡んでややこしいんやろなぐらいしか思ってなかった。

この本はタイトルで買ってしまった
自分が小さい頃、どっかの山を刳り貫いて作ったような大きな仏像がどっかーんって崩れる映像を見た記憶があって、きっとこの本はあの仏像のことを言ってるんやなーと思った

そろそろ本の内容

まずアフガニスタンにある問題は、雇用がないという問題
アフガニスタンは遊牧でずっと生計を立ててきたけど、書かれた当時は旱魃がひどくて、生計を立てることは不可能だった
遊牧で生計を立ててきたせいで、羊が中心の生活になる
羊が食べる草が無くなったら、そこから移動する
生活が出来なくなったら、移住するのが当然になってくる
だからアフガニスタンの人口の30%が難民になる

これは雇用が無いから、移住する人の例


アフガニスタンに残る人は何をするのか
麻薬を作って密輸出する
アフガニスタンで作られた麻薬は世界の麻薬の50%らしい
本来ならアフガニスタンに金が流れるはずだけれど、中間の業者が掠めとってしまう
で作った人たちにお金がいかない 麻薬の世界でもフェアトレードは行われてないってゆう

アフガニスタンから出て行く人の中で、パキスタンに行く若者がいる
彼らはイスラームの神学校に行くことが出来る
そこで読み書きをクルアーンを通して学ぶ
そこで十分にクルアーンの内容が理解出来れば、ターリバーンに入り、イスラム戦士になる
イスラム戦士になるまでの過程で、読み書きを学び、さらにご飯も食べさしてくれる
アフガニスタンにいる時は食べることにも困ってたのに
そらパキスタンに行ってしまう


本の内容は著者の思いが詰まっていた


一番心に残った一文がこれ

先頃、全世界の人びとの悲哀を掻き立て、文化人や芸術家は誰も彼もが、破壊された仏像を守れ、と叫んだ。しかし、旱魃によって引き起こされた凄まじい飢饉のためにアフガニスタンで100万人の人びとの差し迫っている死については、国連難民高等弁務官の他に懸念を表明する人がいなかったのはなぜか。「仏像」の破壊については皆声高に叫ぶのに、アフガンの人びとを飢えで死なせないために、なぜ小さな声も上がらないのか。現代の世界では人間よりも像の方が大事にされるというのか


この一文が自分にとってこの本の一番大きな問いかけだった
自分はこの本を仏像が崩れたあの時のか〜って思いながら買った
アフガニスタンの飢餓で苦しんでいる人びとのことなんか知りもしなかった

この問いかけには答えがありすぎて自分で選ぶ自信、勇気が無い
でもこの問いかけは忘れたくない

2010年1月23日土曜日

日本の医療チーム 2

たださんも書いてたけど
もっかい考えた。


日本はやっぱりすぐに支援に行くべきだった。


今の日本は戦争できんから
それを生かすしかないって考えた。

日本は戦争が起こっても
犠牲者が出ない。
憲法で一応戦争したらアカンことになってるから。
それは日本にとってええことやけど
他の国から見たらちょっと卑怯

そらどの国の人も戦争なんかしたないし
どの兵士も戦争なんかで死ぬのは嫌やろし


だから日本はそうゆう所をきちんと
理解したうえで日本にしかできんことをすべきや



ハイチで震災起こったら一番に乗り込んで
復興支援をすべきで

もし戦争とかが起こったら
負傷した人たちの看病したり

日本はミサイルとか持たんでええから
支援しまくる国になったらどうかなって思う。


戦争のときには日本は世界の病院になって
天災のときは日本はその地域の病院になる。



世界の病院日本!!!!

みたいな。


そしたら今みたいに沖縄の基地の問題とか
せんでよくなるし。


ただの思いつきやけど
なんとなく大切にしたい。

2009年12月25日金曜日

自衛隊のこと

国際社会と日本ってゆう授業で
湾岸戦争についてレポートしてこい
ってゆう課題があった。

湾岸戦争がどんな歴史的意味を
持っているかとか
日本が当時どういう状況やったとか
まったく知らんかったので、
発見というか、思いついたことがちょくちょくあった。

まぁ日本は湾岸戦争で自衛隊を戦争終わって
そのあとに海に残っている機雷処理と90億ドル
ぐらい出したらしい。

日本は軍事力を持たん
とか
戦争に協力しない
とかをすっごい大事にしてるけど、
それは日本のわがままじゃないんかな?


戦争で兵士が死ぬ。
ほんでその家族が悲しむ。
その兵士の友達とかもきっと悲しむやろう。

なんかそのレポートの資料に
自衛隊のえらいさんがアメリカの兵士に

日本は一人当たり一万円の借金をして
湾岸戦争に協力したんやで

ってゆうたらアメリカの兵士は

一万円やるから代わりに戦争やってくれ

ってゆうたって資料に書いてあった。


戦争で人が死ぬってのは
ほんま悲しいことってなんか今更気付いた。

日本の話に変わるけど
戦争で兵士が死にまくってるのに
日本は憲法が云々って話をして
戦争に参加してない。

わがままじゃないんかな?
ほとんどの国が軍隊を持って
世界に平和をもたらすために、
そう信じて戦争にいってるんやろう。

そこで日本だけ
難しい話を持ち出して
軍隊を持たない。

戦争を肯定しているわけではないけど
そこにあるなら
参加せなアカンと思う。

悲しい思いをしたくないのは当然やけど
でもみんながその悲しみを味わってるのに
日本だけそれを傍目で見るのは
ちょっと変だと思った。