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2012年3月11日日曜日

ウィーン まだただの観光地めぐり

ウィーンは観光ばっか。
これは美術史博物館とシェーンブルク宮殿と軍事史博物館に行ったことの感想を書こうと思う。


美術史博物館はヨーロッパで三本の指に入るぐらいの美術館らしい。美術史博物館は他の有名な美術館みたいに王宮などを改築したようなのではなく、ハプスブルク家が純粋に博物館として1891年に作った美術館だ。純粋に美術館として作られただけあってなんか内装がすごい。入ってすぐの階段を登るとこんな彫刻がどかーんとある。


ケンタウロスを駆逐するギリシャ神話の誰かやったと思う。これはケンタウロスやけど、バーバリアンは駆逐せよっていう意味も込められてるらしい。とにかく大きかった。迫力があった。




吹き抜けの天井にはこういう絵が描かれてあった。これはルネサンスを礼賛してあるもので、ルネサンス期に活躍した人が多く描かれてある。ダヴィンチとかミケランジェロとかラファエロとか。どれがどれか忘れてもたけどーなんかこれすきやからiPhoneのロック画面にしてる。




これエジプトの人が描かれてた。こんなのがあるんやなーと思って撮った。まぁなんだかんだ有名な絵もたくさんあって回るのに二時間半ぐらいかかってしまった。回ってたら美術館の中にレストランがあるのを知って、そこに行ってみた。
そこでビーフシチューみたいなのを食った。死ぬほどうまい。ビールが合う。それで気分が良くなってコーヒーとケーキを頼んだ。もうわけわかんぐらいうまい。それで合計が25ユーロぐらいやってんけど、ウェイターも優しかったし調子に乗って30ユーロ出して5ユーロあげた。紳士になった気分になった。レストランの風景はこんなん。もう最高だった。ここの飯はうまいしおすすめ



次は軍事博物館。
入った時にびっくりしたことはまぁ日曜日やってんけど、人が結構いた。多分地元の人っぽい。ドイツ語話してたから。こんなに大勢の人がなんでこんな所に来るんかなーと思た。家族連れとかが目立った。年寄りはそんなにおらんかった。取りあえずそれにびっくりした。

で、戦争の絵とかがたくさんあった。陣形とかが書かれていて、地平線がずーっと続いている絵ばっかりだった。そんな絵ばっかり。まぁ疲れてたし適当にぶらぶらしてた。それで見たかったものが見れた


オーストリアの皇太子、フランツ・フェルディナント皇太子が暗殺されら車。
すぐよこに実際に撃たれた時に着てた服もあった。当時のヨーロッパは複雑な同盟をくんでいて、敵味方がぐちゃぐちゃだった。そして結局第一次世界大戦が始まる。ここから始まったのかーと。しばらくぼーっとした。
そんな感じの軍事史博物館。


シェーンブルン宮殿にも行った。
ここには世紀末芸術ってゆう多分19世紀から20世紀になるぐらいまでの絵がたくさんあった。一階からおれは見た。
一階は多分20世紀の絵だったと思う。人物の顔とかが写実的に書かれているんじゃなくて、油絵で緑色とか実際とは異なるような色で塗られていた。写実的に表すよりも、心の様子を描いているんだって解説に書いてあった。

でも二階に行ったら貴族の肖像画とかキリストの絵みたいなのがいっぱいあった。これはきっと写実的に書いてるんやなーと思った。でも年代が少し離れていた。いつの年からその写実ではなく、心の様子を書こうとしたんだろうってすごく疑問が湧いた。でもそれはきっと違って、両方あったんだろうなと今気付いた。写実的に書いて欲しい人もおるやろし、心の様子を書いて欲しいと思う人もおるやろし。だから厳密に心の様子はこの頃から描かれ始めましたって決めるのは難しいだろうな。

でもそれ以上に、たった何十年かの間に表現の方法の変化に驚いた。写実的な絵しかなかった時に、真緑に顔の色を塗った絵が世に出た時はその当時の人は驚いただろうなーてゆーかそれまで顔の色は肌色って思ってた世の中で、緑を一番に塗った人はすごいなーと思った。
まぁなんせおれなりに美術館を楽しんですごく楽しかった。
あと、シェーンブルグ宮殿には、クリムトの「接吻」という絵がある。


その絵の前でちゅーしてるカップルたちがいて、これは確かに一人で見る絵ではないなと思いました。

ウィーンやっとおわり!!!
次はブダペストでそれで旅ブログはおわり!!!!

2012年3月10日土曜日

ウィーン ただの観光地巡り

ハプスブルク家の王宮や離宮などがウィーンにはある。
これまでしめっぽい文章ばっか書いてたけど、ウィーンは死ぬほど観光した。
王宮博物館とか美術史博物館とか軍事博物館にも行った。

そこで思ったことを適当に書こうと思う。
王宮博物館は最初はほんまにしょうもなかった。
金銀銅の食器とかフォークがずらーと並べてあって、オーディオガイドでそれを惰性で聞いていただけだった。でもナポレオン戦争後の解説から後がとてもおもしろかった。

オーストリアはナポレオン戦争であほほど軍事費を使ってしまい、戦争で必要な金銀銅が無いから食器とかを溶かして兵器にしたらしい。てゆーかそんなに食器のあまりがあったんかよと思った。実際にすごくあった。もう一体何に使うんっていうやつばっかだった。

これが30メートルぐらいあったらしい。これを机の真ん中において、花とかをそえてもうよくわからんけど、こんなにキンキラもんのモノがたくさんあった。庶民がこんな生活を貴族が行っていることを知ったらそら毎日飯食うのに困る市民が革命起こしたくなるわと思った。革命に共鳴出来てしまった。
そしてオーディオガイドを聞いているとこんなことを言っていた。

ナポレオン戦争で軍事費を賄うために金銀の食器を売ったり武器に加工したけど、1814,15年に行われたウィーン会議でまた豪華な食器セットが必要になったから新しい食器を買いました。それがこれです。

みたいなことを言っていた。ウィーン会議とは安全保障を勉強する上で絶対必要な概念である、バランスオブパワーが生まれた重要な会議である。それは大国が戦争を避けるために、軍事力の均衡を壊さないというものである。しかし、これには問題があって、小国は大国の政治ゲームの犠牲になってしまうのだ。大国のしかも限られた人しか関与出来ないというまさにハイポリティクスの典型的な例だ。
でまぁその会議をするために金銀が使われたんですよ。各国の大使とかVIPをもてなすために。でも一番困ったのは誰かってそんなん市民に決まってるだろーナポレオン戦争が始まってから徴兵制も始まったんやしさ。一番被害を受けたのは市民だろーなんかこの博物館に来て豪華な食器とかを見てすげー豪華ーなんて言えるような気になれなかった。なんかハイポリティクスってほんまに終ってるなーと思った。なんかなーと思いながら国立博物館のそういう食器のゾーンを終えた。

そんで次にあったとこは、Sisi博物館というものだった。シシーというのはこの人。
まぁ急にハプスブルク家に嫁いじゃった田舎の貴族みたいな女の人。宮廷の堅苦しい生活に嫌気がさして公務を放棄して旅行にふけっていたんやって。その博物館ではその人生がすごくドラマチックに紹介されていた。めっちゃ綺麗で可愛い女の子が急に王家に嫁いで、姑に嫌われ、子供も自殺してしまったりする。彼女は自由な人間だから旅行を愛したのだー!みたいな。子供の自殺とかそれはすごく悲しいと思う。子供が自殺とか辛いけど、だからと言って一人で贅沢な旅行をしていいんか??博物館では宮廷の暮らしが嫌になって旅行に出たとかってなってたけど、ほんまに嫌なら辞めてしまえばいいし、オーストリアの税金を使って自分は傷心旅行をしてこいつは一体なんなんって思った。この人は顔面とスタイルが良いということですごく有名で、可愛いから人気でるのはいいことやけど、やってることはただのわがままやんけって思った。

なんか文句ばっかり言ってるけど、すごく楽しんでましたウィーン

そんでその二個の博物館行って腹減ったから王宮博物館と併設されてるようなカフェに入った。なんかチキンをどないかした料理を頼んでめっちゃうまかった。腹減りすぎて写メるのを忘れてしまっていた。ほんでアップルパイも食べた。これまで食べた食べ物の中で一番おいしかった。それはビールをいっぱい飲んでて酔ってたからかもしれんけど、めっちゃおいしかった。ほんまに今すぐ食べたいぐらいおいしかった。
その日はそんな感じ。
貴族や王家とかはそら潰されるわと実感出来た。

2012年3月9日金曜日

悲しみのウィーン

昨日、3月8日に帰国しました。
でもまだ書いていないことがあるので、書く。


ベルリンに行った後プラハにも寄ったけど、観光地ばっかり巡ったし、プラハをぶらつく日が一日しか無かったから、そこまで書くことが無い。プラハ城がとんでもなく綺麗だったけど、プラハ城の衛兵の交代式がへぼすぎで話しならんかったことぐらい。だから、プラハの次に行ったウィーンのことを書こうと思う。


ウィーンはハプスブルク家とかマリー・アントワネットとかマリア・テレジアとかの王家がすごく有名だと思う。緑豊かで王家の統治が続いたーみたいなイメージがある。自分もそういうイメージしか持っていなかった。でも、中欧に旅行に行くことを決めて、それまでのウィーン観を揺さぶる本に出会った。それが観光コースではないウィーンって本だ。




この本はウィーンはナチスの政策に共鳴し、ウィーンはナチスの政策を受け入れていたということを書いている。実際に読んでみて、衝撃的だった。
ウィーンには多くのユダヤ人が戦前には住んでいて、この本によると、

1938年のドイツとの合邦当時、ウィーンの新聞、銀行、服飾産業の四分の三はエリートユダヤ人の手に握られていました。

とある。これは合邦当時とあるがソースが明らかではない。もしかしたらナチスがオーストリア人を騙すためにウソをついたかもしれない。ユダヤ人はオーストリアで社会の元凶であるというレッテルを張られてしまったのだ。新聞や銀行や服飾産業の四分の三をユダヤ人が占めていたとは自分は考えられなかったけど、こういう数字が通用してしまった背景には実際にユダヤ人の方が豊かな生活を送っていたのだろう。それも人種差別を行ってしまうぐらい生活に困っていたのだろう。



これはユダヤ人が道端を掃除しているシーン。
これはナチスの高官をどっかのユダヤ人が殺して、その見せしめにゲッペルスがユダヤ人を襲撃するように命令してそこでナチスが襲撃ーこの本によるとウィーンの市民も襲撃したらしいーして、その後にユダヤ人に道路を這いつくばって掃除するように命令した。襲撃でユダヤ人の家の窓ガラスが割れ、それが反射することから、その事件は水晶の夜事件と呼ばれているらしい。

この写真は実際に自分が撮った写真。この像はウィーンの王宮や国立オペラ劇場の間にある。街のど真ん中にあるのだ。周りには観光客がたくさんいた。でもこの像があることを知っている観光客は少ないだろう。実際に、この像はなにかのモニュメントに隠れているようにさえ見えた。ウィーンの人もこんな像を見たくないんだろうなと思った。


この本には色んなことがあった。引用していたらいつまでも書き終わらないから、興味を持った人は買ってみて欲しい。
オーストリアにはナチスの協力者がたくさんいて、公に厳然と批判してしまうと、その協力者や共感者が地下に潜ってしまうので、そういうことは避けてきたらしい。

うーん書くことがまとまらない。
とりあえずこれが新王宮の写真


ここで合邦当時ヒトラーが演説をした。
大きい広場がその前にあるねんけど、それを埋め尽くすぐらいの人が集まった。
鉤十字の旗を振りまきながら。
wien hitlerで調べたらいっぱい画像が出てくるよ


ウィーンにはナチスの政策を肯定する人が1990年代にはウィーンで38%、ザルツブルクでは50%ぐらいいたらしい。
自分はこのことにどうしたものかと思った。でも思ってみたら、日本の戦前の政策を肯定する日本人も50%ぐらいいるからなーとか思った。それならしゃーないか、人のこと言えんなと一瞬思ったけど、それは違う。
多くの人が肯定するからと言って、それが正しいなんて思ってはいけない。
それこそまたナチスを復活させてしまうと思い直した。
そんなウィーン一発目のブログ