でもまだ書いていないことがあるので、書く。
ベルリンに行った後プラハにも寄ったけど、観光地ばっかり巡ったし、プラハをぶらつく日が一日しか無かったから、そこまで書くことが無い。プラハ城がとんでもなく綺麗だったけど、プラハ城の衛兵の交代式がへぼすぎで話しならんかったことぐらい。だから、プラハの次に行ったウィーンのことを書こうと思う。
ウィーンはハプスブルク家とかマリー・アントワネットとかマリア・テレジアとかの王家がすごく有名だと思う。緑豊かで王家の統治が続いたーみたいなイメージがある。自分もそういうイメージしか持っていなかった。でも、中欧に旅行に行くことを決めて、それまでのウィーン観を揺さぶる本に出会った。それが観光コースではないウィーンって本だ。
この本はウィーンはナチスの政策に共鳴し、ウィーンはナチスの政策を受け入れていたということを書いている。実際に読んでみて、衝撃的だった。
ウィーンには多くのユダヤ人が戦前には住んでいて、この本によると、
1938年のドイツとの合邦当時、ウィーンの新聞、銀行、服飾産業の四分の三はエリートユダヤ人の手に握られていました。
とある。これは合邦当時とあるがソースが明らかではない。もしかしたらナチスがオーストリア人を騙すためにウソをついたかもしれない。ユダヤ人はオーストリアで社会の元凶であるというレッテルを張られてしまったのだ。新聞や銀行や服飾産業の四分の三をユダヤ人が占めていたとは自分は考えられなかったけど、こういう数字が通用してしまった背景には実際にユダヤ人の方が豊かな生活を送っていたのだろう。それも人種差別を行ってしまうぐらい生活に困っていたのだろう。
これはユダヤ人が道端を掃除しているシーン。
これはナチスの高官をどっかのユダヤ人が殺して、その見せしめにゲッペルスがユダヤ人を襲撃するように命令してそこでナチスが襲撃ーこの本によるとウィーンの市民も襲撃したらしいーして、その後にユダヤ人に道路を這いつくばって掃除するように命令した。襲撃でユダヤ人の家の窓ガラスが割れ、それが反射することから、その事件は水晶の夜事件と呼ばれているらしい。
この写真は実際に自分が撮った写真。この像はウィーンの王宮や国立オペラ劇場の間にある。街のど真ん中にあるのだ。周りには観光客がたくさんいた。でもこの像があることを知っている観光客は少ないだろう。実際に、この像はなにかのモニュメントに隠れているようにさえ見えた。ウィーンの人もこんな像を見たくないんだろうなと思った。
この本には色んなことがあった。引用していたらいつまでも書き終わらないから、興味を持った人は買ってみて欲しい。
オーストリアにはナチスの協力者がたくさんいて、公に厳然と批判してしまうと、その協力者や共感者が地下に潜ってしまうので、そういうことは避けてきたらしい。
うーん書くことがまとまらない。
とりあえずこれが新王宮の写真

ここで合邦当時ヒトラーが演説をした。
大きい広場がその前にあるねんけど、それを埋め尽くすぐらいの人が集まった。
鉤十字の旗を振りまきながら。
wien hitlerで調べたらいっぱい画像が出てくるよ
ウィーンにはナチスの政策を肯定する人が1990年代にはウィーンで38%、ザルツブルクでは50%ぐらいいたらしい。
自分はこのことにどうしたものかと思った。でも思ってみたら、日本の戦前の政策を肯定する日本人も50%ぐらいいるからなーとか思った。それならしゃーないか、人のこと言えんなと一瞬思ったけど、それは違う。
多くの人が肯定するからと言って、それが正しいなんて思ってはいけない。
それこそまたナチスを復活させてしまうと思い直した。
そんなウィーン一発目のブログ
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