仏教を興したブッダの話しから。
ブッダが悟った時に、ブッダは自分の悟りは
余人には自分の悟りは分からないからので
布教はせんとこって考えていた。
しかしブラフマンが現れ、
「ブッダがその悟りを広めてくれないと世界は終わってしまうよ。
確かにブッダの教えは難しいかもしれないけど、
理解してくれる人もいるよ」
とブラフマンがブッダに言い、ブッダは周りを見渡すと、
生まれつき資質がある人もいた。
そしてブッダは「不死を得る門は開かれた。云々」と言い、布教を始めた。
ここに大きな疑問がある。
ブッダにとって「生」は苦しみに他ならない。
生きている者は生老病死から逃れることは出来ない。
ブッダにとっての悟りはその「生」から逃れることが悟りの本質があるべきだ。
しかし「不死の門は開かれた」とあるが、これは一体どうゆうことだ!?
不死があるということは、
別離の苦しみ、嫉妬などの苦しみ、力が無くなる苦しみ
などからは逃れられないはずだ。
それともブッダが言った「不死」は一般的に考えられている「不死」とは違うのか。
一体なんなんだ。
一体なんなんだ。
もし、本当にブッダが「不死」を願っているなら、自分の仏教観は大きく変わるぜ。
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