2012年3月2日金曜日

ポツダム慕情

慕情ってどうゆう意味か知りません。すいません。何となく語呂がいいなーと思って使いました。元ネタはガニメデ慕情ですよ。


とにかく僕はポツダム会談が行われた宮殿みたいなところに行った。ベルリンから50分ぐらい。ベルリンで会談を行おうとしたけど、ベルリンは戦場となっていて、破壊され尽くされていたので、ポツダムで会談を行うことになったらしい。

ゴトトン、ゴトトンと電車が揺れる電車に乗りながらポツダムへ向かった。そしてバスに乗り換え宮殿へ向かう。結構遠い!!!


宮殿に着いた。
そんなに宮殿っぽくなかった。ヨーロッパの建築の多くはは石で出来ていると思うけど、この宮殿はそれではなかった。
土でと木で出来ていた。この旅で見てきた教会や建物は威圧的な建物が多かったけど、この宮殿からは土や木を使っているからか、温かみを感じた。

しかも会議室として価値がある部屋以外はホテルとして現在は利用されていた。これにはテンションがあがった。今度もしドイツに来ることがあったらここに泊まりたい。


そんな感じで宮殿の中に入った。日本語のオーディオガイドがすごく助かった。
通路にポツダム会談の写真があり、それぞれの写真の説明をオーディオガイドで聞いた。その中で、ヤルタ会談とポツダム会談のメンバーの比較をしていた。

ヤルタ会談の写真ではルーズベルト、チャーチル、スターリンが写っていた。米英ソの三巨頭が偉そうに座っていた。でもルーズベルトの顔は真っ黒で、ヤルタ会談の後、死んでしまうのだ。
そしてその次の会談ではルーズベルトの代わりにトルーマンになる。ヤルタ会談の議長国はアメリカなので、議長もルーズベルトからトルーマンに代わる。

二枚目の写真はトルーマン、チャーチル、スターリンになっていた。

そしてポツダム会談では、チャーチルも英国の選挙でまさかの敗戦で、チャーチルからアトリーに代わってしまったのだ。

つまり、戦後世界を決める会談に全て出席したのはスターリンだけなのである。これはつまり、会談の内容を一番理解しているので、交渉の際に非常に有利になるのだ。
事実、ポツダム会談の前にあったヤルタ会談ではソ連に不利な条項が多くあったが、スターリンはほれをソ連に有利なように交渉をすることが出来たのだ。


そしてとうとう、その会談が行われた部屋に入ることが出来た。大きな吹き抜けのような天井で、窓もその吹き抜けぐらい長く、大きかった。
その窓の前に円形の大きなテーブルがあり、その真ん中にそれぞれ米英ソの小さな国旗が掲げられていた。


入った瞬間、背筋がゾクゾクとするような感覚がした。ここでヨーロッパの国境と日本の処理が行われたのだ。それから60年ぐらいたった部屋に自分がいるんだ。
そしてここから冷戦も始まったんだなーと。私は国際関係的なゼミだったので、とって感慨深い部屋だった。


その他にも、ポツダム会談の際に米英ソの代表団の控室にも入ることが出来た。ここは本当に国際関係勉強してる人にとってテンションがあがらざるを得ん宮殿だと思う。

控室の部屋割りもおもしろかった。
ポツダム会談の部屋には二つの扉があり、片方はソ連、もう片方は米英の部屋に通じている。この微妙な心配りがすごく国際関係を勉強していて大事だと思ったので、自分は本当に交渉が行われていたんだと、自分はそこにいるんだと強く実感出来た。


宮殿はそんな感じだった。
宮殿の外は庭園があって、夏に来たらめっちゃ綺麗やろなーって思った。

いやーしかしここで日本の戦後が決まったんやなと思ったらほんまに考えされた。
ハイポリティクスとゆう言葉を意識せざるを得んかった。
まぁそんな感じで最高でした、ポツダム観光。

ポツダムのアディダスストアで黒のナイキの靴を衝動買いしたことは秘密である。

おわり

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