10月16、17日に行われた『看取りのWS』を振り返る
看取りというテーマに引かれてこのWSに参加したのではない
年に一度開かれるWSに自分は一回生の時から毎回参加している
死という答えがない問いをこのWSで問いかけられ、その問いに答えられずに毎回もやもやしながらかえっていた。で、何日かはその問いを引きずる。でも死ってゆうテーマについて二日通して考える機会は普通ありえんし、死というものを知りたいから自分は参加している
今年のゲストはホスピスの人がきた
延命治療ではなく、残された時間を有意義に使おうというのが、ホスピスの人を救うってゆう考え
だからその人は当日も一人看取ってきたそうだ
それに自分はまずびっくりした
人が息を引き取る瞬間をみた後にWSのゲストとして参加するそのモチベーションというか、その論理転換って何?
ってほんまに混乱した
その人の話は衝撃的すぎた
この人と同じ時間をおれは過ごしてるんやって思ったら頭がクラクラしてきそうだった
これまでに500回以上は看取りをしてきたらしい
それ聞いただけでもう想像がつかなかった
その人の話では看取った後に亡くなった後に体を拭くときに、そこにいるみんなが癒されるらしい
亡くなる前ってのは、介護が大変だったり、遺産相続の問題があったり
でもその体を拭くってゆうので、みんなでそれまでの苦労というか、いざこざが無くなるらしい
そこでそのシチュエーションにいる人はそれで癒されるけど、でもそれって生き残っている側の自己満足じゃないんかな?って考えてしまう。死んだからといってそれで終わらしていいんかな?
自分も春に祖母が死んであまり祖母に恩返しというのが出来なかったことを後悔していた
でもゲストの話を聞いて、なんか心がすっとした
『あなたは悪くないよ』って言われて。
その時は泣きそうなぐらい、おれも癒されたけど、やっぱり自分が悪いと思う
だってあんまり関われなかったし
この後悔は忘れたくない
一日目はこんな感じ
二日目は自分はどうやって看取られたいかってテーマ
自分は死の痛みをちゃんと味わって死にたいと言った
生きている者としての最後の責任が死をきちんと味わうということだと思って
理由ははっきりせんけど、そう思う。
死は大きなエネルギーを持つものやと再確認した
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