2012年3月15日木曜日

嬉しかったこと

春から大阪に住むからネットの契約をするためにSoftBankに行って来た。ケータイの店なんやから可愛い人が対応してくれるかなーとか思ってたらそんなに若くない女の人が対応してくれた。

おれが色々質問したら笑顔で答えるっていうのではなく、真剣に答えようとして眉間にシワが寄る。そん時はそうゆう人なんかなと思った。あんまり若くもないし、可愛くないし、つーかむしろなんでこんなに愛想悪いしなんやねんこいつとまで思ってしまった。これはちょろっとひどすぎると自分でも思う。これはマジで反省。

でも他人は自分の鏡とか言うよー分からん言葉があるのとを思い出した。だからその人は眉間にシワ寄せながら話しをしてたけど、おれは笑顔で話してみようと思った。

ネットの契約とか機種変の説明とか質問をする間、笑顔で聞いた。そしたら少しずつ対応してくれた女の人も顔がほころんで来た。それで機種変をする時とかはもうお互い笑顔になったいた。ほんまはネット契約だけしようと思ってたけど、なんかこの人いい人やから機種変しようと思ってしまうぐらいなんか嬉しかった。


自分が笑顔になって周りが、関わった人が笑顔になるってすごく嬉しかった。まぁ向こうがなぜ後半になるにつれて笑顔なったかはあんまり深入りしたくないけどー

まぁとにかく嬉しかった

旅行のことは気が向いたらまた書きます。

2012年3月11日日曜日

ウィーン まだただの観光地めぐり

ウィーンは観光ばっか。
これは美術史博物館とシェーンブルク宮殿と軍事史博物館に行ったことの感想を書こうと思う。


美術史博物館はヨーロッパで三本の指に入るぐらいの美術館らしい。美術史博物館は他の有名な美術館みたいに王宮などを改築したようなのではなく、ハプスブルク家が純粋に博物館として1891年に作った美術館だ。純粋に美術館として作られただけあってなんか内装がすごい。入ってすぐの階段を登るとこんな彫刻がどかーんとある。


ケンタウロスを駆逐するギリシャ神話の誰かやったと思う。これはケンタウロスやけど、バーバリアンは駆逐せよっていう意味も込められてるらしい。とにかく大きかった。迫力があった。




吹き抜けの天井にはこういう絵が描かれてあった。これはルネサンスを礼賛してあるもので、ルネサンス期に活躍した人が多く描かれてある。ダヴィンチとかミケランジェロとかラファエロとか。どれがどれか忘れてもたけどーなんかこれすきやからiPhoneのロック画面にしてる。




これエジプトの人が描かれてた。こんなのがあるんやなーと思って撮った。まぁなんだかんだ有名な絵もたくさんあって回るのに二時間半ぐらいかかってしまった。回ってたら美術館の中にレストランがあるのを知って、そこに行ってみた。
そこでビーフシチューみたいなのを食った。死ぬほどうまい。ビールが合う。それで気分が良くなってコーヒーとケーキを頼んだ。もうわけわかんぐらいうまい。それで合計が25ユーロぐらいやってんけど、ウェイターも優しかったし調子に乗って30ユーロ出して5ユーロあげた。紳士になった気分になった。レストランの風景はこんなん。もう最高だった。ここの飯はうまいしおすすめ



次は軍事博物館。
入った時にびっくりしたことはまぁ日曜日やってんけど、人が結構いた。多分地元の人っぽい。ドイツ語話してたから。こんなに大勢の人がなんでこんな所に来るんかなーと思た。家族連れとかが目立った。年寄りはそんなにおらんかった。取りあえずそれにびっくりした。

で、戦争の絵とかがたくさんあった。陣形とかが書かれていて、地平線がずーっと続いている絵ばっかりだった。そんな絵ばっかり。まぁ疲れてたし適当にぶらぶらしてた。それで見たかったものが見れた


オーストリアの皇太子、フランツ・フェルディナント皇太子が暗殺されら車。
すぐよこに実際に撃たれた時に着てた服もあった。当時のヨーロッパは複雑な同盟をくんでいて、敵味方がぐちゃぐちゃだった。そして結局第一次世界大戦が始まる。ここから始まったのかーと。しばらくぼーっとした。
そんな感じの軍事史博物館。


シェーンブルン宮殿にも行った。
ここには世紀末芸術ってゆう多分19世紀から20世紀になるぐらいまでの絵がたくさんあった。一階からおれは見た。
一階は多分20世紀の絵だったと思う。人物の顔とかが写実的に書かれているんじゃなくて、油絵で緑色とか実際とは異なるような色で塗られていた。写実的に表すよりも、心の様子を描いているんだって解説に書いてあった。

でも二階に行ったら貴族の肖像画とかキリストの絵みたいなのがいっぱいあった。これはきっと写実的に書いてるんやなーと思った。でも年代が少し離れていた。いつの年からその写実ではなく、心の様子を書こうとしたんだろうってすごく疑問が湧いた。でもそれはきっと違って、両方あったんだろうなと今気付いた。写実的に書いて欲しい人もおるやろし、心の様子を書いて欲しいと思う人もおるやろし。だから厳密に心の様子はこの頃から描かれ始めましたって決めるのは難しいだろうな。

でもそれ以上に、たった何十年かの間に表現の方法の変化に驚いた。写実的な絵しかなかった時に、真緑に顔の色を塗った絵が世に出た時はその当時の人は驚いただろうなーてゆーかそれまで顔の色は肌色って思ってた世の中で、緑を一番に塗った人はすごいなーと思った。
まぁなんせおれなりに美術館を楽しんですごく楽しかった。
あと、シェーンブルグ宮殿には、クリムトの「接吻」という絵がある。


その絵の前でちゅーしてるカップルたちがいて、これは確かに一人で見る絵ではないなと思いました。

ウィーンやっとおわり!!!
次はブダペストでそれで旅ブログはおわり!!!!

2012年3月10日土曜日

ウィーン ただの観光地巡り

ハプスブルク家の王宮や離宮などがウィーンにはある。
これまでしめっぽい文章ばっか書いてたけど、ウィーンは死ぬほど観光した。
王宮博物館とか美術史博物館とか軍事博物館にも行った。

そこで思ったことを適当に書こうと思う。
王宮博物館は最初はほんまにしょうもなかった。
金銀銅の食器とかフォークがずらーと並べてあって、オーディオガイドでそれを惰性で聞いていただけだった。でもナポレオン戦争後の解説から後がとてもおもしろかった。

オーストリアはナポレオン戦争であほほど軍事費を使ってしまい、戦争で必要な金銀銅が無いから食器とかを溶かして兵器にしたらしい。てゆーかそんなに食器のあまりがあったんかよと思った。実際にすごくあった。もう一体何に使うんっていうやつばっかだった。

これが30メートルぐらいあったらしい。これを机の真ん中において、花とかをそえてもうよくわからんけど、こんなにキンキラもんのモノがたくさんあった。庶民がこんな生活を貴族が行っていることを知ったらそら毎日飯食うのに困る市民が革命起こしたくなるわと思った。革命に共鳴出来てしまった。
そしてオーディオガイドを聞いているとこんなことを言っていた。

ナポレオン戦争で軍事費を賄うために金銀の食器を売ったり武器に加工したけど、1814,15年に行われたウィーン会議でまた豪華な食器セットが必要になったから新しい食器を買いました。それがこれです。

みたいなことを言っていた。ウィーン会議とは安全保障を勉強する上で絶対必要な概念である、バランスオブパワーが生まれた重要な会議である。それは大国が戦争を避けるために、軍事力の均衡を壊さないというものである。しかし、これには問題があって、小国は大国の政治ゲームの犠牲になってしまうのだ。大国のしかも限られた人しか関与出来ないというまさにハイポリティクスの典型的な例だ。
でまぁその会議をするために金銀が使われたんですよ。各国の大使とかVIPをもてなすために。でも一番困ったのは誰かってそんなん市民に決まってるだろーナポレオン戦争が始まってから徴兵制も始まったんやしさ。一番被害を受けたのは市民だろーなんかこの博物館に来て豪華な食器とかを見てすげー豪華ーなんて言えるような気になれなかった。なんかハイポリティクスってほんまに終ってるなーと思った。なんかなーと思いながら国立博物館のそういう食器のゾーンを終えた。

そんで次にあったとこは、Sisi博物館というものだった。シシーというのはこの人。
まぁ急にハプスブルク家に嫁いじゃった田舎の貴族みたいな女の人。宮廷の堅苦しい生活に嫌気がさして公務を放棄して旅行にふけっていたんやって。その博物館ではその人生がすごくドラマチックに紹介されていた。めっちゃ綺麗で可愛い女の子が急に王家に嫁いで、姑に嫌われ、子供も自殺してしまったりする。彼女は自由な人間だから旅行を愛したのだー!みたいな。子供の自殺とかそれはすごく悲しいと思う。子供が自殺とか辛いけど、だからと言って一人で贅沢な旅行をしていいんか??博物館では宮廷の暮らしが嫌になって旅行に出たとかってなってたけど、ほんまに嫌なら辞めてしまえばいいし、オーストリアの税金を使って自分は傷心旅行をしてこいつは一体なんなんって思った。この人は顔面とスタイルが良いということですごく有名で、可愛いから人気でるのはいいことやけど、やってることはただのわがままやんけって思った。

なんか文句ばっかり言ってるけど、すごく楽しんでましたウィーン

そんでその二個の博物館行って腹減ったから王宮博物館と併設されてるようなカフェに入った。なんかチキンをどないかした料理を頼んでめっちゃうまかった。腹減りすぎて写メるのを忘れてしまっていた。ほんでアップルパイも食べた。これまで食べた食べ物の中で一番おいしかった。それはビールをいっぱい飲んでて酔ってたからかもしれんけど、めっちゃおいしかった。ほんまに今すぐ食べたいぐらいおいしかった。
その日はそんな感じ。
貴族や王家とかはそら潰されるわと実感出来た。

2012年3月9日金曜日

悲しみのウィーン

昨日、3月8日に帰国しました。
でもまだ書いていないことがあるので、書く。


ベルリンに行った後プラハにも寄ったけど、観光地ばっかり巡ったし、プラハをぶらつく日が一日しか無かったから、そこまで書くことが無い。プラハ城がとんでもなく綺麗だったけど、プラハ城の衛兵の交代式がへぼすぎで話しならんかったことぐらい。だから、プラハの次に行ったウィーンのことを書こうと思う。


ウィーンはハプスブルク家とかマリー・アントワネットとかマリア・テレジアとかの王家がすごく有名だと思う。緑豊かで王家の統治が続いたーみたいなイメージがある。自分もそういうイメージしか持っていなかった。でも、中欧に旅行に行くことを決めて、それまでのウィーン観を揺さぶる本に出会った。それが観光コースではないウィーンって本だ。




この本はウィーンはナチスの政策に共鳴し、ウィーンはナチスの政策を受け入れていたということを書いている。実際に読んでみて、衝撃的だった。
ウィーンには多くのユダヤ人が戦前には住んでいて、この本によると、

1938年のドイツとの合邦当時、ウィーンの新聞、銀行、服飾産業の四分の三はエリートユダヤ人の手に握られていました。

とある。これは合邦当時とあるがソースが明らかではない。もしかしたらナチスがオーストリア人を騙すためにウソをついたかもしれない。ユダヤ人はオーストリアで社会の元凶であるというレッテルを張られてしまったのだ。新聞や銀行や服飾産業の四分の三をユダヤ人が占めていたとは自分は考えられなかったけど、こういう数字が通用してしまった背景には実際にユダヤ人の方が豊かな生活を送っていたのだろう。それも人種差別を行ってしまうぐらい生活に困っていたのだろう。



これはユダヤ人が道端を掃除しているシーン。
これはナチスの高官をどっかのユダヤ人が殺して、その見せしめにゲッペルスがユダヤ人を襲撃するように命令してそこでナチスが襲撃ーこの本によるとウィーンの市民も襲撃したらしいーして、その後にユダヤ人に道路を這いつくばって掃除するように命令した。襲撃でユダヤ人の家の窓ガラスが割れ、それが反射することから、その事件は水晶の夜事件と呼ばれているらしい。

この写真は実際に自分が撮った写真。この像はウィーンの王宮や国立オペラ劇場の間にある。街のど真ん中にあるのだ。周りには観光客がたくさんいた。でもこの像があることを知っている観光客は少ないだろう。実際に、この像はなにかのモニュメントに隠れているようにさえ見えた。ウィーンの人もこんな像を見たくないんだろうなと思った。


この本には色んなことがあった。引用していたらいつまでも書き終わらないから、興味を持った人は買ってみて欲しい。
オーストリアにはナチスの協力者がたくさんいて、公に厳然と批判してしまうと、その協力者や共感者が地下に潜ってしまうので、そういうことは避けてきたらしい。

うーん書くことがまとまらない。
とりあえずこれが新王宮の写真


ここで合邦当時ヒトラーが演説をした。
大きい広場がその前にあるねんけど、それを埋め尽くすぐらいの人が集まった。
鉤十字の旗を振りまきながら。
wien hitlerで調べたらいっぱい画像が出てくるよ


ウィーンにはナチスの政策を肯定する人が1990年代にはウィーンで38%、ザルツブルクでは50%ぐらいいたらしい。
自分はこのことにどうしたものかと思った。でも思ってみたら、日本の戦前の政策を肯定する日本人も50%ぐらいいるからなーとか思った。それならしゃーないか、人のこと言えんなと一瞬思ったけど、それは違う。
多くの人が肯定するからと言って、それが正しいなんて思ってはいけない。
それこそまたナチスを復活させてしまうと思い直した。
そんなウィーン一発目のブログ

2012年3月6日火曜日

負の遺産としての博物館

ベルリンユダヤ博物館に行った。その博物館はアウグストゥスとかアウグスティヌスとか、おれはよー知らんギリシャ時代?の昔からのユダヤ教の資料から、現代に至るまでのユダヤ教の歴史を見ることが出来る。

この博物館は建築的にも有名で、変な形をしていた。おれにはその建物の価値はよー分からんけど、オーディオガイドの前半では建物が建てられた当時どれだけ衝撃的だったかをずっと説明してた。
博物館に入ってすぐアウシュヴィッツへの道、亡命の道そして継続の道とゆう三本の道があった。アウシュヴィッツへの道を行くと、行き止まりになっていた。この構造により、観覧者は不安な気持ちになるらしい。おれはならんかったけど。ワインとビールをその前に飲んでいて、気持ちよくなってたのもあると思うけど。
オーディオガイドが

アウシュヴィッツの道を歩くと、観覧者は不安な気持ちになります

って言ってたけど、その説明は違うよと


ベルリンユダヤ博物館は内容が充実しすぎて何があったかとか逐一書くことは出来ない。
でもベルリンユダヤ博物館を訪れて、自国の歴史のネガティブな面は、博物館とかの日常生活とは離れたところにおいているのではないかということに気づいた。

ワルシャワを訪れた時にも書いたけど、ネガティブなものを見ながら生活するのはやっぱりしんどい。

ネガティブな歴史の証を見たくないから、博物館に入れるんやなと思った。壊すのもそれは違うやろうし、でもずっと生活空間にあるのは嫌だ。だからその歴史の証を博物館に入れる。博物館がたくさんあるということは、行き場を無くしたネガティブな歴史の証を保管するためにあるんかなーと思った。

2012年3月5日月曜日

歴史を残すとは

冷戦中、西側から東側へ行くことは出来たけど、東側から西側へ行くことは困難だった。西側の人が東側の人達と壁のゲートで泣きながら別れを惜しむ、涙の宮殿というところにも行った。

そのゲートは今はもう無くなっていて、立派な展示会場みたいなものがあった。
その展示場でのドイツは徹底した被害者だった。第二次世界大戦が集結して、ドイツは米ソの超大国の冷戦に巻き込まれ、多くのドイツ市民が離れ離れになってしまった。みたいな感じの主張が多かった。(展示物は全て英語の文章でした。my English is very poorです)

アウシュヴィッツやワルシャワではドイツが圧倒的に加害者だった。それがベルリンに来てみたら被害者に代わっていたのがおもしろかった。

もちろん、第二次世界大戦と冷戦は違う。でも、ドイツがその加害者側としての側面を見る機会が本当に少なかった。

反省とは、謝罪とは何なのか。
歴史を残すとは、被害者であったことを声高に主張することなのか。
自分が犯した罪を謝罪して、自己批判をすることが、歴史を残すとゆうことではないのか。
一方では被害者だからと言って、その一方の面だけを主張することは、罪を認めていないのではないか。

日本でも同じことが言える。

と、涙の宮殿を訪れた私はドイツのことをよく知らないけどそう思った。

60年ぐらいしか経ってないですよ

ベルリン。
ブダペスト、クラクフ、ワルシャワそしてベルリンに入った。

クラクフでアウシュヴィッツとかゲットーを見て、ワルシャワではワルシャワ蜂起博物館とか色んな所を訪れて、そのどれもが衝撃を私に与えた。
衝撃が多過ぎてきっと疲れたんだろう、アンテナを張り巡らすことを忘れていた。ビールばっか飲んでました。


まずベルリンの壁が崩壊して、一番最初に国境が開かれた橋に行った。橋自体は普通の橋だった。東側の橋には壁がまだ残っていた。その壁はもちろん汚い落書きばっかりだった。

ベルリンの壁崩壊直前、直後の詳しい様子について書かれた展示物もあった。しかしその展示物でさえ落書きされていた。
崩壊直後の写真も展示されており、東側の人達は狂喜乱舞して西側に渡っていた。でも西側は失業率が東側より厳しく、全てが東側より優っている訳ではなかった。でもやっぱ壁が崩壊して、家族と会えたり、友人と再会出来たりすることは素晴らしいことだと思った。


ベルリンの壁にしろ、ユダヤ人ゲットーにしろハイポリティクスが市民に悪影響を与え過ぎていることを、大国の指導者達は気にしなかったのだろうか。大きな利益つまり国家利益のために少数の人達を犠牲にしてしまうことについて、どのように思っていたのだろうか
そうゆう時代だったから、とゆうまとめ方はしたくない。原爆投下に対してもそうだ。大きな利益のために、非人道的な兵器を使う。感覚が違うだろうが、その感覚の違いは大問題だとおれは思う。
たった60年ぐらい前やのにこの差はすごいなと思ったのです。

2012年3月2日金曜日

ポツダム慕情

慕情ってどうゆう意味か知りません。すいません。何となく語呂がいいなーと思って使いました。元ネタはガニメデ慕情ですよ。


とにかく僕はポツダム会談が行われた宮殿みたいなところに行った。ベルリンから50分ぐらい。ベルリンで会談を行おうとしたけど、ベルリンは戦場となっていて、破壊され尽くされていたので、ポツダムで会談を行うことになったらしい。

ゴトトン、ゴトトンと電車が揺れる電車に乗りながらポツダムへ向かった。そしてバスに乗り換え宮殿へ向かう。結構遠い!!!


宮殿に着いた。
そんなに宮殿っぽくなかった。ヨーロッパの建築の多くはは石で出来ていると思うけど、この宮殿はそれではなかった。
土でと木で出来ていた。この旅で見てきた教会や建物は威圧的な建物が多かったけど、この宮殿からは土や木を使っているからか、温かみを感じた。

しかも会議室として価値がある部屋以外はホテルとして現在は利用されていた。これにはテンションがあがった。今度もしドイツに来ることがあったらここに泊まりたい。


そんな感じで宮殿の中に入った。日本語のオーディオガイドがすごく助かった。
通路にポツダム会談の写真があり、それぞれの写真の説明をオーディオガイドで聞いた。その中で、ヤルタ会談とポツダム会談のメンバーの比較をしていた。

ヤルタ会談の写真ではルーズベルト、チャーチル、スターリンが写っていた。米英ソの三巨頭が偉そうに座っていた。でもルーズベルトの顔は真っ黒で、ヤルタ会談の後、死んでしまうのだ。
そしてその次の会談ではルーズベルトの代わりにトルーマンになる。ヤルタ会談の議長国はアメリカなので、議長もルーズベルトからトルーマンに代わる。

二枚目の写真はトルーマン、チャーチル、スターリンになっていた。

そしてポツダム会談では、チャーチルも英国の選挙でまさかの敗戦で、チャーチルからアトリーに代わってしまったのだ。

つまり、戦後世界を決める会談に全て出席したのはスターリンだけなのである。これはつまり、会談の内容を一番理解しているので、交渉の際に非常に有利になるのだ。
事実、ポツダム会談の前にあったヤルタ会談ではソ連に不利な条項が多くあったが、スターリンはほれをソ連に有利なように交渉をすることが出来たのだ。


そしてとうとう、その会談が行われた部屋に入ることが出来た。大きな吹き抜けのような天井で、窓もその吹き抜けぐらい長く、大きかった。
その窓の前に円形の大きなテーブルがあり、その真ん中にそれぞれ米英ソの小さな国旗が掲げられていた。


入った瞬間、背筋がゾクゾクとするような感覚がした。ここでヨーロッパの国境と日本の処理が行われたのだ。それから60年ぐらいたった部屋に自分がいるんだ。
そしてここから冷戦も始まったんだなーと。私は国際関係的なゼミだったので、とって感慨深い部屋だった。


その他にも、ポツダム会談の際に米英ソの代表団の控室にも入ることが出来た。ここは本当に国際関係勉強してる人にとってテンションがあがらざるを得ん宮殿だと思う。

控室の部屋割りもおもしろかった。
ポツダム会談の部屋には二つの扉があり、片方はソ連、もう片方は米英の部屋に通じている。この微妙な心配りがすごく国際関係を勉強していて大事だと思ったので、自分は本当に交渉が行われていたんだと、自分はそこにいるんだと強く実感出来た。


宮殿はそんな感じだった。
宮殿の外は庭園があって、夏に来たらめっちゃ綺麗やろなーって思った。

いやーしかしここで日本の戦後が決まったんやなと思ったらほんまに考えされた。
ハイポリティクスとゆう言葉を意識せざるを得んかった。
まぁそんな感じで最高でした、ポツダム観光。

ポツダムのアディダスストアで黒のナイキの靴を衝動買いしたことは秘密である。

おわり

2012年3月1日木曜日

感想ofドイツ

高校に入って、それまでやってた野球を辞めた。その時ぐらいにWikipediaを知り、著名人をwikiりまくった。
その時ビートたけしとかおれが好きな著名人はほとんどが偏差値の高い学校に行ってたことを知った。勉強をそれまで全くしたことがなかったので、これはかなり衝撃で、受験勉強をする時の動機になった。

勉強するにはやはり難しい本を読まなければと思ったおれは、なぜかWikipediaでしった、ヒトラーの「わが闘争」を読もうと思い立った。遅れてきた中2病だ。
何はともあれ三巻ぐらいあった「わが闘争」を高2ぐらいまでには読み切った。「わが闘争」のドイツのイメージをいまのドイツに当てはめたりはしないけど、「わが闘争」の内容を実現させた後のドイツがどのようなものかについてすごく興味があった。だから自分がドイツを観光したことはすごく感慨深いものなのである。


ドイツ。
大学になってから少し世界が広がり、ドイツはヨーロッパ随一の経済大国ということを知った。現在ユーロ危機の真っ最中だが、どの国もドイツの経済に頼りにしているみたいな記事を目にしたこともあり、ヨーロッパの経済大国とは一体どんなものなんだろうとわくてかしながらワルシャワを発った。


ワルシャワからベルリンまで電車で5時間弱ぐらいだった。山も大きな川も無かった気がする。地続きで国境が接しているというのは自分には一生分からんような気がした。

電車から横目で見ていた風景がだんだん都市っぽくなってきた。そろそろベルリンかなーと思って街をじーっと見てみると、落書きや小屋みたいなバラックの群が見えた。まぁそうゆう地域もあるかと思って見てたけど、線路沿いにそうゆうバラックの群が続いていた。日本にもそうゆうのがあると思うけど、なんか違って見えた。

ドイツは経済大国ってゆう先入観があったからかな。でも経済大国ってゆうことは逆に競争が激しいとゆうことやから、まぁそれが経済大国としての運命かーと思った。
でもそれにしても落書きが多かった。なんでか分からんけど、ほんまに落書きだらけ。駅とか、電車の中にまで落書きだらけだった。ほんまに汚いと思った。

ヨーロッパの経済大国がこれかよ!みたいな。おいおい。大丈夫かよヨーロッパっておれは思った。
アジアの世紀が始まる予感がバシバシと感じられた。