2012年7月25日水曜日

向井秀徳批評

皆が知ってるとか知らんかとか知らんけど、おれは向井秀徳が好き


この人は昔number girlっていうバンドで活動してたんやけど、今はソロとかzazen boysっていうバンドで活動しています。


久しぶりにzazen boysの新しいアルバムが出るって知ったから、向井秀徳について書いてみようと思った。




まず初めておれが向井の曲を聞いたのは、中学校の頃やと思う。
最初はガチャガチャしたうるさいバンドやなと思ってあんま好きになれんかった
そのアルバムはこれ
http://www.amazon.co.jp/ライヴ・アルバム-~サッポロ-OMOIDE-IN-HEAD/dp/B00007FOX7/ref=sr_1_9?s=music&ie=UTF8&qid=1343221112&sr=1-9



うーん最初はほんまに受け付けなかった気がする。
最初聞いた時にnumber girlは解散していることを知った。


それで今度はどういうきっかけか忘れたけど座禅を聞き始めた。
その時のことはあまり覚えてない。
でもかっこいいと感じたことは覚えてる
それでまたもっかいnumber girlを聞いてみようと思った。


今度はスタジオ音源の曲を聞いた。
ガチャガチャうるさい音が整然と鳴らされてるけど、それを壊すかのような向井の絶叫が爽やかだった
number girlの曲は、曲自体が向井の衝動の塊のようだった
一瞬の衝動を向井っていうフィルターを通して、曲にしている

向井の曲によく出てくる、女の子とか酒とか一瞬のなんかとか
なんかよー分からん風景のことだとかがよかった

どこか文学的で、抽象的で分かるようで分からんことを曲にしていた



number girlはそのへんがよかった
zazen boysの3ぐらいまではよかった



でも4ぐらいからちょっと曲の意味が分かりすぎて、曲の良さがわからんくなった。
衝動を曲に押し込むっていうスタンスは変わってないと思うけど、衝動を受けた対象が卑近すぎてなんだか嫌になった
新しいアルバム「すとーりーず」の中には「ポテトサラダ」ってタイトルの曲がある。
なんかなーって感じ
まぁ向井もネタが無くなったんかなと思ってしまう
悲しい

2012年5月29日火曜日

ガンダムダブルゼータ感想

大学生の頃からガンダムシリーズをゆっくり見てきた。
なんか最近ずっと頭を占拠してるからそれをここで吐き出したいと思う。
ネタばれも起こってしまうかもしれんから、それを気にする人は見ない方がいいかも。
あとおれはアニメ編しか見てないので、その辺はよろしく


以下
機動戦士ガンダムはアムロ編
機動戦士ガンダムゼータはカミーユ編
機動戦士ガンダムダブルゼータはジュドー編に省略



ジュドー編見て、なんかおちゃらけた雰囲気やなーと思った。
こういうのはあんまり求めてなかったから、見るんやめようとしたけど、なんでこんなにおちゃらけた雰囲気なんかなーということを考えてみた。


ジュドーは妹のリイナしか家族がいない。
ジュドーの友人たちも親がいない。なんだかんだの理由があって
彼らは自分たちでお金を稼がないと生きて行けない。
善悪の判断の前に、その日を生きる金が必要だ。ここにアムロ編とかカミーユ編にはない、単純な理論があると思う。
生きていくためには、善悪は二の次ってことだ。


おれはそれが悲しかった。
ガンダムの主人公が生きていくことさえ保障されていないのかと。
そらシリアスなアニメにはならんなと。
ジュドーや仲間達のおちゃらけの背景には、そういう暗さというか、ある意味ですごく冷めた所が垣間見えることがすごく悲しかった。
そういう意味では、アムロ編、カミーユ編よりもジュドー編の方が一番シリアスだとおれは思う。

おれはガンダムに、正しさとはなにかっていうのを求めていたと思う。
でもジュドー編はそんなことは言ってはいられない状況だった。
コメディに走ったとかいう批判が多いけど、それは仕方がない。時代が悪いからだ。連邦も、ジオンもまともな人たちは皆死んでしまったり、闘えない状況だったから。
これはジュドー編に出てくるキャラを馬鹿にしてるんじゃない。
でも、皆死んだんだよ
だからグレミーみたいな子供が出てきたり、キャラみたいなわけ分からん奴が出てくるんやろ


何が言いたいか忘れたけど、ダブルゼータは駄作なんかじゃない。
コメディ路線に走ったのも、失敗じゃなく必然なんだ。
あの時代が悪いんだ!
ということで終らせてもらいます。

まぁでもアニメじゃない!のあの曲はクソだと思う
そして社会人一発目のブログがこの内容とか意味不明だと思うけど、私は楽しい日々をすごしています。

2012年4月9日月曜日

思い出 in my ハンガリー

ブダペストのことを書く。

ウィーンで友人のしゅんすけとお別れをして、ハンガリーは一人で観光した。

ウィーンからハンガリーの首都ブダペストまでバスで3時間ぐらい。19ユーロぐらいめっちゃ安い。ウィーンからブダペストに向かうまでは、これまでみたいに地続きではなく、まだ少し起伏があった。風景をぼーっと見てたらあっという間についた。

ブダペストのバス停についてwifiを使おうと思ったら全く電波が無くて死にそうになった。ほんまに死にそうになったけど、とりあえずホテルの住所っぽい通りの名前が地図に載っててその駅に行った。その駅について外に出たけど、街はすっかり夜で人通りは少ない。こんな時間に旅行者がリュックを背負って歩くとか狙われる死ぬと思ってちょっと怖かった。けど別になんもなかった。

とりあえず駅に戻って駅員みたいなおっさんにホテルの住所教えたけど全く英語が通じない。そしたらおっさんが若い女の子に声をかけて、その女の子が彼氏を呼んでくれて、ホテルの前まで連れて行ってくれた。めっちゃ優しかった。ほんまに感謝。ハンガリー人の優しさに触れた。ホテルに着いてほんまに久しぶりに一人になれて落ち着いた。すぐ寝た。


次の日はだらだらと起きて、観光をした。
市場が近くにあって、そこに行ってみた。
ソーセージとか野菜とか色んな種類の店がガーっと並んでいた。人はまぁまぁおったかな〜観光客しか来んのか知らんけど価格設定が高かった。
だから他の店行ってからワインとか買うことにした。


ブダペストは温泉でもすごく有名で、しかもやたら古い温泉がある。
そこに行ってみることにした。
てかその前にブダ地域とペスト地域を挟んでいるドナウ川を橋で超える。川を渡ると、小高い丘がある。その頂上に登った。その丘のふもとにはホットワインを売っとるおっさんがいて、試飲させてくれてあんまり美味しくなかったけど買った。

頂上までは結構かかった。
汗だくになったけど、景色がすごく綺麗だった。


実は夜がすごく綺麗なのだ。
汗だーだーになりながら登り、温泉に向かった。
この丘を下った所にその温泉はある。16世紀からやっている温泉で、中々雰囲気がすごかった。久しぶりにお湯に浸かれて、疲れが吹き飛んだ気がする。
少し硫黄臭かったけど、薄暗いドーム型の風呂の雰囲気がよかった。地球の歩き方に、ゲイの社交場としても利用されることがあるとか書かれてて、確かにそんな感じだった。


ほんでうまいハンガリー料理を食った。
なんか忘れたけどとんでもなくうまかった。
ビールも最高だった。

この日はそんぐらいやったかな。
ホテル帰ってアニマルプラネットをずっと見てた。


次の日は卒業出来るかどうかの発表やって、ほんま死にそうやった。なんとか卒業出来たことを確認して、出かけた。この頃はもう地下鉄も余裕で乗り回してたな。
二日目は恐怖の館という所に行ったんやったかな。
第二次ではナチス側につき、冷戦ではソ連側についたハンガリー。その時代の残虐さをミュージアムで体感出来るような構成になっていた。意図的に恐怖を演出していて、それはどうかと思った。恐怖を演出することは実際に恐怖を体感した人を愚弄していると思った。でも本当に恐ろしかった。アウシュヴィッツとはまた違った恐ろしさがあった。

ほんでフォアグラを食いに行った
あんまおいしなかった


そしてまた違う温泉に行った。
そこはほんまに綺麗だった。
温泉は水着を着て、混浴だった。綺麗なビキニのお姉さんがたくさんいた。混浴とはその時おれは知らなかったので、逮捕されると思ったら汚いデブなおっさんがいて安心した。
ここも16世紀ぐらいからある古い温泉だった。よかった。


夜になって、また丘に登った。
ブダペストの夜景は黄色だった。トカイワインを片手に持って飲みながら見てたからあんまその時のことは覚えてない。とにかく綺麗だった。
あーもう旅が終るのかと寂しく思った。
日本に帰りたくない、旅をもっと続けたいと思った。
悲しくはならんかったけど、旅は楽しかった。
世界は小さい、狭いと思ったけど、おれはもっと小さい。おれの小ささを実感出来た旅だった。



帰りの飛行機でフランクフルトを経由した。その時食ったランチ

おれはもう米食わんでも、ビールとソーセージとジャガイモとパンがあったら生きて行けるとこの時確信した。ドイツ万歳。帰国してからカリーブースト5回は確実に作った。


そしてスペシャルサンクスしゅんすけ

ということで旅日記これにて終了

2012年4月5日木曜日

キムチ屋のおばちゃん

火曜日研修が5時まで予定されてたけど、強風の影響で3時までになって、直帰することになった。家に帰ってからニュースを見てその風の強さにびびったけど。                                                                                           まぁ早く帰られたから前から気になってたキムチ屋に行ってみた。 商店街みたいな所にポツンとある。                                                                             キムチが売られててんけど袋入りしか無くて、しかも結構大きめしかなくて、小さいの無いですかとおばちゃんに聞いたら用意したるわーと言って作業をし始めた。                                                                                          おばちゃんがお兄ちゃん営業け? と言ってきたから、おれは いや、昨日入社したばっかの新入社員です って言ったらおばちゃんは笑顔で そうなんーがんばりやー と言ってくれた。 その後もちょっと話しをして家帰った                                                                  こんなけですよ
でもなんか嬉しかったんですよ
まだキムチ食ってないけど

2012年3月15日木曜日

嬉しかったこと

春から大阪に住むからネットの契約をするためにSoftBankに行って来た。ケータイの店なんやから可愛い人が対応してくれるかなーとか思ってたらそんなに若くない女の人が対応してくれた。

おれが色々質問したら笑顔で答えるっていうのではなく、真剣に答えようとして眉間にシワが寄る。そん時はそうゆう人なんかなと思った。あんまり若くもないし、可愛くないし、つーかむしろなんでこんなに愛想悪いしなんやねんこいつとまで思ってしまった。これはちょろっとひどすぎると自分でも思う。これはマジで反省。

でも他人は自分の鏡とか言うよー分からん言葉があるのとを思い出した。だからその人は眉間にシワ寄せながら話しをしてたけど、おれは笑顔で話してみようと思った。

ネットの契約とか機種変の説明とか質問をする間、笑顔で聞いた。そしたら少しずつ対応してくれた女の人も顔がほころんで来た。それで機種変をする時とかはもうお互い笑顔になったいた。ほんまはネット契約だけしようと思ってたけど、なんかこの人いい人やから機種変しようと思ってしまうぐらいなんか嬉しかった。


自分が笑顔になって周りが、関わった人が笑顔になるってすごく嬉しかった。まぁ向こうがなぜ後半になるにつれて笑顔なったかはあんまり深入りしたくないけどー

まぁとにかく嬉しかった

旅行のことは気が向いたらまた書きます。

2012年3月11日日曜日

ウィーン まだただの観光地めぐり

ウィーンは観光ばっか。
これは美術史博物館とシェーンブルク宮殿と軍事史博物館に行ったことの感想を書こうと思う。


美術史博物館はヨーロッパで三本の指に入るぐらいの美術館らしい。美術史博物館は他の有名な美術館みたいに王宮などを改築したようなのではなく、ハプスブルク家が純粋に博物館として1891年に作った美術館だ。純粋に美術館として作られただけあってなんか内装がすごい。入ってすぐの階段を登るとこんな彫刻がどかーんとある。


ケンタウロスを駆逐するギリシャ神話の誰かやったと思う。これはケンタウロスやけど、バーバリアンは駆逐せよっていう意味も込められてるらしい。とにかく大きかった。迫力があった。




吹き抜けの天井にはこういう絵が描かれてあった。これはルネサンスを礼賛してあるもので、ルネサンス期に活躍した人が多く描かれてある。ダヴィンチとかミケランジェロとかラファエロとか。どれがどれか忘れてもたけどーなんかこれすきやからiPhoneのロック画面にしてる。




これエジプトの人が描かれてた。こんなのがあるんやなーと思って撮った。まぁなんだかんだ有名な絵もたくさんあって回るのに二時間半ぐらいかかってしまった。回ってたら美術館の中にレストランがあるのを知って、そこに行ってみた。
そこでビーフシチューみたいなのを食った。死ぬほどうまい。ビールが合う。それで気分が良くなってコーヒーとケーキを頼んだ。もうわけわかんぐらいうまい。それで合計が25ユーロぐらいやってんけど、ウェイターも優しかったし調子に乗って30ユーロ出して5ユーロあげた。紳士になった気分になった。レストランの風景はこんなん。もう最高だった。ここの飯はうまいしおすすめ



次は軍事博物館。
入った時にびっくりしたことはまぁ日曜日やってんけど、人が結構いた。多分地元の人っぽい。ドイツ語話してたから。こんなに大勢の人がなんでこんな所に来るんかなーと思た。家族連れとかが目立った。年寄りはそんなにおらんかった。取りあえずそれにびっくりした。

で、戦争の絵とかがたくさんあった。陣形とかが書かれていて、地平線がずーっと続いている絵ばっかりだった。そんな絵ばっかり。まぁ疲れてたし適当にぶらぶらしてた。それで見たかったものが見れた


オーストリアの皇太子、フランツ・フェルディナント皇太子が暗殺されら車。
すぐよこに実際に撃たれた時に着てた服もあった。当時のヨーロッパは複雑な同盟をくんでいて、敵味方がぐちゃぐちゃだった。そして結局第一次世界大戦が始まる。ここから始まったのかーと。しばらくぼーっとした。
そんな感じの軍事史博物館。


シェーンブルン宮殿にも行った。
ここには世紀末芸術ってゆう多分19世紀から20世紀になるぐらいまでの絵がたくさんあった。一階からおれは見た。
一階は多分20世紀の絵だったと思う。人物の顔とかが写実的に書かれているんじゃなくて、油絵で緑色とか実際とは異なるような色で塗られていた。写実的に表すよりも、心の様子を描いているんだって解説に書いてあった。

でも二階に行ったら貴族の肖像画とかキリストの絵みたいなのがいっぱいあった。これはきっと写実的に書いてるんやなーと思った。でも年代が少し離れていた。いつの年からその写実ではなく、心の様子を書こうとしたんだろうってすごく疑問が湧いた。でもそれはきっと違って、両方あったんだろうなと今気付いた。写実的に書いて欲しい人もおるやろし、心の様子を書いて欲しいと思う人もおるやろし。だから厳密に心の様子はこの頃から描かれ始めましたって決めるのは難しいだろうな。

でもそれ以上に、たった何十年かの間に表現の方法の変化に驚いた。写実的な絵しかなかった時に、真緑に顔の色を塗った絵が世に出た時はその当時の人は驚いただろうなーてゆーかそれまで顔の色は肌色って思ってた世の中で、緑を一番に塗った人はすごいなーと思った。
まぁなんせおれなりに美術館を楽しんですごく楽しかった。
あと、シェーンブルグ宮殿には、クリムトの「接吻」という絵がある。


その絵の前でちゅーしてるカップルたちがいて、これは確かに一人で見る絵ではないなと思いました。

ウィーンやっとおわり!!!
次はブダペストでそれで旅ブログはおわり!!!!

2012年3月10日土曜日

ウィーン ただの観光地巡り

ハプスブルク家の王宮や離宮などがウィーンにはある。
これまでしめっぽい文章ばっか書いてたけど、ウィーンは死ぬほど観光した。
王宮博物館とか美術史博物館とか軍事博物館にも行った。

そこで思ったことを適当に書こうと思う。
王宮博物館は最初はほんまにしょうもなかった。
金銀銅の食器とかフォークがずらーと並べてあって、オーディオガイドでそれを惰性で聞いていただけだった。でもナポレオン戦争後の解説から後がとてもおもしろかった。

オーストリアはナポレオン戦争であほほど軍事費を使ってしまい、戦争で必要な金銀銅が無いから食器とかを溶かして兵器にしたらしい。てゆーかそんなに食器のあまりがあったんかよと思った。実際にすごくあった。もう一体何に使うんっていうやつばっかだった。

これが30メートルぐらいあったらしい。これを机の真ん中において、花とかをそえてもうよくわからんけど、こんなにキンキラもんのモノがたくさんあった。庶民がこんな生活を貴族が行っていることを知ったらそら毎日飯食うのに困る市民が革命起こしたくなるわと思った。革命に共鳴出来てしまった。
そしてオーディオガイドを聞いているとこんなことを言っていた。

ナポレオン戦争で軍事費を賄うために金銀の食器を売ったり武器に加工したけど、1814,15年に行われたウィーン会議でまた豪華な食器セットが必要になったから新しい食器を買いました。それがこれです。

みたいなことを言っていた。ウィーン会議とは安全保障を勉強する上で絶対必要な概念である、バランスオブパワーが生まれた重要な会議である。それは大国が戦争を避けるために、軍事力の均衡を壊さないというものである。しかし、これには問題があって、小国は大国の政治ゲームの犠牲になってしまうのだ。大国のしかも限られた人しか関与出来ないというまさにハイポリティクスの典型的な例だ。
でまぁその会議をするために金銀が使われたんですよ。各国の大使とかVIPをもてなすために。でも一番困ったのは誰かってそんなん市民に決まってるだろーナポレオン戦争が始まってから徴兵制も始まったんやしさ。一番被害を受けたのは市民だろーなんかこの博物館に来て豪華な食器とかを見てすげー豪華ーなんて言えるような気になれなかった。なんかハイポリティクスってほんまに終ってるなーと思った。なんかなーと思いながら国立博物館のそういう食器のゾーンを終えた。

そんで次にあったとこは、Sisi博物館というものだった。シシーというのはこの人。
まぁ急にハプスブルク家に嫁いじゃった田舎の貴族みたいな女の人。宮廷の堅苦しい生活に嫌気がさして公務を放棄して旅行にふけっていたんやって。その博物館ではその人生がすごくドラマチックに紹介されていた。めっちゃ綺麗で可愛い女の子が急に王家に嫁いで、姑に嫌われ、子供も自殺してしまったりする。彼女は自由な人間だから旅行を愛したのだー!みたいな。子供の自殺とかそれはすごく悲しいと思う。子供が自殺とか辛いけど、だからと言って一人で贅沢な旅行をしていいんか??博物館では宮廷の暮らしが嫌になって旅行に出たとかってなってたけど、ほんまに嫌なら辞めてしまえばいいし、オーストリアの税金を使って自分は傷心旅行をしてこいつは一体なんなんって思った。この人は顔面とスタイルが良いということですごく有名で、可愛いから人気でるのはいいことやけど、やってることはただのわがままやんけって思った。

なんか文句ばっかり言ってるけど、すごく楽しんでましたウィーン

そんでその二個の博物館行って腹減ったから王宮博物館と併設されてるようなカフェに入った。なんかチキンをどないかした料理を頼んでめっちゃうまかった。腹減りすぎて写メるのを忘れてしまっていた。ほんでアップルパイも食べた。これまで食べた食べ物の中で一番おいしかった。それはビールをいっぱい飲んでて酔ってたからかもしれんけど、めっちゃおいしかった。ほんまに今すぐ食べたいぐらいおいしかった。
その日はそんな感じ。
貴族や王家とかはそら潰されるわと実感出来た。

2012年3月9日金曜日

悲しみのウィーン

昨日、3月8日に帰国しました。
でもまだ書いていないことがあるので、書く。


ベルリンに行った後プラハにも寄ったけど、観光地ばっかり巡ったし、プラハをぶらつく日が一日しか無かったから、そこまで書くことが無い。プラハ城がとんでもなく綺麗だったけど、プラハ城の衛兵の交代式がへぼすぎで話しならんかったことぐらい。だから、プラハの次に行ったウィーンのことを書こうと思う。


ウィーンはハプスブルク家とかマリー・アントワネットとかマリア・テレジアとかの王家がすごく有名だと思う。緑豊かで王家の統治が続いたーみたいなイメージがある。自分もそういうイメージしか持っていなかった。でも、中欧に旅行に行くことを決めて、それまでのウィーン観を揺さぶる本に出会った。それが観光コースではないウィーンって本だ。




この本はウィーンはナチスの政策に共鳴し、ウィーンはナチスの政策を受け入れていたということを書いている。実際に読んでみて、衝撃的だった。
ウィーンには多くのユダヤ人が戦前には住んでいて、この本によると、

1938年のドイツとの合邦当時、ウィーンの新聞、銀行、服飾産業の四分の三はエリートユダヤ人の手に握られていました。

とある。これは合邦当時とあるがソースが明らかではない。もしかしたらナチスがオーストリア人を騙すためにウソをついたかもしれない。ユダヤ人はオーストリアで社会の元凶であるというレッテルを張られてしまったのだ。新聞や銀行や服飾産業の四分の三をユダヤ人が占めていたとは自分は考えられなかったけど、こういう数字が通用してしまった背景には実際にユダヤ人の方が豊かな生活を送っていたのだろう。それも人種差別を行ってしまうぐらい生活に困っていたのだろう。



これはユダヤ人が道端を掃除しているシーン。
これはナチスの高官をどっかのユダヤ人が殺して、その見せしめにゲッペルスがユダヤ人を襲撃するように命令してそこでナチスが襲撃ーこの本によるとウィーンの市民も襲撃したらしいーして、その後にユダヤ人に道路を這いつくばって掃除するように命令した。襲撃でユダヤ人の家の窓ガラスが割れ、それが反射することから、その事件は水晶の夜事件と呼ばれているらしい。

この写真は実際に自分が撮った写真。この像はウィーンの王宮や国立オペラ劇場の間にある。街のど真ん中にあるのだ。周りには観光客がたくさんいた。でもこの像があることを知っている観光客は少ないだろう。実際に、この像はなにかのモニュメントに隠れているようにさえ見えた。ウィーンの人もこんな像を見たくないんだろうなと思った。


この本には色んなことがあった。引用していたらいつまでも書き終わらないから、興味を持った人は買ってみて欲しい。
オーストリアにはナチスの協力者がたくさんいて、公に厳然と批判してしまうと、その協力者や共感者が地下に潜ってしまうので、そういうことは避けてきたらしい。

うーん書くことがまとまらない。
とりあえずこれが新王宮の写真


ここで合邦当時ヒトラーが演説をした。
大きい広場がその前にあるねんけど、それを埋め尽くすぐらいの人が集まった。
鉤十字の旗を振りまきながら。
wien hitlerで調べたらいっぱい画像が出てくるよ


ウィーンにはナチスの政策を肯定する人が1990年代にはウィーンで38%、ザルツブルクでは50%ぐらいいたらしい。
自分はこのことにどうしたものかと思った。でも思ってみたら、日本の戦前の政策を肯定する日本人も50%ぐらいいるからなーとか思った。それならしゃーないか、人のこと言えんなと一瞬思ったけど、それは違う。
多くの人が肯定するからと言って、それが正しいなんて思ってはいけない。
それこそまたナチスを復活させてしまうと思い直した。
そんなウィーン一発目のブログ

2012年3月6日火曜日

負の遺産としての博物館

ベルリンユダヤ博物館に行った。その博物館はアウグストゥスとかアウグスティヌスとか、おれはよー知らんギリシャ時代?の昔からのユダヤ教の資料から、現代に至るまでのユダヤ教の歴史を見ることが出来る。

この博物館は建築的にも有名で、変な形をしていた。おれにはその建物の価値はよー分からんけど、オーディオガイドの前半では建物が建てられた当時どれだけ衝撃的だったかをずっと説明してた。
博物館に入ってすぐアウシュヴィッツへの道、亡命の道そして継続の道とゆう三本の道があった。アウシュヴィッツへの道を行くと、行き止まりになっていた。この構造により、観覧者は不安な気持ちになるらしい。おれはならんかったけど。ワインとビールをその前に飲んでいて、気持ちよくなってたのもあると思うけど。
オーディオガイドが

アウシュヴィッツの道を歩くと、観覧者は不安な気持ちになります

って言ってたけど、その説明は違うよと


ベルリンユダヤ博物館は内容が充実しすぎて何があったかとか逐一書くことは出来ない。
でもベルリンユダヤ博物館を訪れて、自国の歴史のネガティブな面は、博物館とかの日常生活とは離れたところにおいているのではないかということに気づいた。

ワルシャワを訪れた時にも書いたけど、ネガティブなものを見ながら生活するのはやっぱりしんどい。

ネガティブな歴史の証を見たくないから、博物館に入れるんやなと思った。壊すのもそれは違うやろうし、でもずっと生活空間にあるのは嫌だ。だからその歴史の証を博物館に入れる。博物館がたくさんあるということは、行き場を無くしたネガティブな歴史の証を保管するためにあるんかなーと思った。

2012年3月5日月曜日

歴史を残すとは

冷戦中、西側から東側へ行くことは出来たけど、東側から西側へ行くことは困難だった。西側の人が東側の人達と壁のゲートで泣きながら別れを惜しむ、涙の宮殿というところにも行った。

そのゲートは今はもう無くなっていて、立派な展示会場みたいなものがあった。
その展示場でのドイツは徹底した被害者だった。第二次世界大戦が集結して、ドイツは米ソの超大国の冷戦に巻き込まれ、多くのドイツ市民が離れ離れになってしまった。みたいな感じの主張が多かった。(展示物は全て英語の文章でした。my English is very poorです)

アウシュヴィッツやワルシャワではドイツが圧倒的に加害者だった。それがベルリンに来てみたら被害者に代わっていたのがおもしろかった。

もちろん、第二次世界大戦と冷戦は違う。でも、ドイツがその加害者側としての側面を見る機会が本当に少なかった。

反省とは、謝罪とは何なのか。
歴史を残すとは、被害者であったことを声高に主張することなのか。
自分が犯した罪を謝罪して、自己批判をすることが、歴史を残すとゆうことではないのか。
一方では被害者だからと言って、その一方の面だけを主張することは、罪を認めていないのではないか。

日本でも同じことが言える。

と、涙の宮殿を訪れた私はドイツのことをよく知らないけどそう思った。

60年ぐらいしか経ってないですよ

ベルリン。
ブダペスト、クラクフ、ワルシャワそしてベルリンに入った。

クラクフでアウシュヴィッツとかゲットーを見て、ワルシャワではワルシャワ蜂起博物館とか色んな所を訪れて、そのどれもが衝撃を私に与えた。
衝撃が多過ぎてきっと疲れたんだろう、アンテナを張り巡らすことを忘れていた。ビールばっか飲んでました。


まずベルリンの壁が崩壊して、一番最初に国境が開かれた橋に行った。橋自体は普通の橋だった。東側の橋には壁がまだ残っていた。その壁はもちろん汚い落書きばっかりだった。

ベルリンの壁崩壊直前、直後の詳しい様子について書かれた展示物もあった。しかしその展示物でさえ落書きされていた。
崩壊直後の写真も展示されており、東側の人達は狂喜乱舞して西側に渡っていた。でも西側は失業率が東側より厳しく、全てが東側より優っている訳ではなかった。でもやっぱ壁が崩壊して、家族と会えたり、友人と再会出来たりすることは素晴らしいことだと思った。


ベルリンの壁にしろ、ユダヤ人ゲットーにしろハイポリティクスが市民に悪影響を与え過ぎていることを、大国の指導者達は気にしなかったのだろうか。大きな利益つまり国家利益のために少数の人達を犠牲にしてしまうことについて、どのように思っていたのだろうか
そうゆう時代だったから、とゆうまとめ方はしたくない。原爆投下に対してもそうだ。大きな利益のために、非人道的な兵器を使う。感覚が違うだろうが、その感覚の違いは大問題だとおれは思う。
たった60年ぐらい前やのにこの差はすごいなと思ったのです。

2012年3月2日金曜日

ポツダム慕情

慕情ってどうゆう意味か知りません。すいません。何となく語呂がいいなーと思って使いました。元ネタはガニメデ慕情ですよ。


とにかく僕はポツダム会談が行われた宮殿みたいなところに行った。ベルリンから50分ぐらい。ベルリンで会談を行おうとしたけど、ベルリンは戦場となっていて、破壊され尽くされていたので、ポツダムで会談を行うことになったらしい。

ゴトトン、ゴトトンと電車が揺れる電車に乗りながらポツダムへ向かった。そしてバスに乗り換え宮殿へ向かう。結構遠い!!!


宮殿に着いた。
そんなに宮殿っぽくなかった。ヨーロッパの建築の多くはは石で出来ていると思うけど、この宮殿はそれではなかった。
土でと木で出来ていた。この旅で見てきた教会や建物は威圧的な建物が多かったけど、この宮殿からは土や木を使っているからか、温かみを感じた。

しかも会議室として価値がある部屋以外はホテルとして現在は利用されていた。これにはテンションがあがった。今度もしドイツに来ることがあったらここに泊まりたい。


そんな感じで宮殿の中に入った。日本語のオーディオガイドがすごく助かった。
通路にポツダム会談の写真があり、それぞれの写真の説明をオーディオガイドで聞いた。その中で、ヤルタ会談とポツダム会談のメンバーの比較をしていた。

ヤルタ会談の写真ではルーズベルト、チャーチル、スターリンが写っていた。米英ソの三巨頭が偉そうに座っていた。でもルーズベルトの顔は真っ黒で、ヤルタ会談の後、死んでしまうのだ。
そしてその次の会談ではルーズベルトの代わりにトルーマンになる。ヤルタ会談の議長国はアメリカなので、議長もルーズベルトからトルーマンに代わる。

二枚目の写真はトルーマン、チャーチル、スターリンになっていた。

そしてポツダム会談では、チャーチルも英国の選挙でまさかの敗戦で、チャーチルからアトリーに代わってしまったのだ。

つまり、戦後世界を決める会談に全て出席したのはスターリンだけなのである。これはつまり、会談の内容を一番理解しているので、交渉の際に非常に有利になるのだ。
事実、ポツダム会談の前にあったヤルタ会談ではソ連に不利な条項が多くあったが、スターリンはほれをソ連に有利なように交渉をすることが出来たのだ。


そしてとうとう、その会談が行われた部屋に入ることが出来た。大きな吹き抜けのような天井で、窓もその吹き抜けぐらい長く、大きかった。
その窓の前に円形の大きなテーブルがあり、その真ん中にそれぞれ米英ソの小さな国旗が掲げられていた。


入った瞬間、背筋がゾクゾクとするような感覚がした。ここでヨーロッパの国境と日本の処理が行われたのだ。それから60年ぐらいたった部屋に自分がいるんだ。
そしてここから冷戦も始まったんだなーと。私は国際関係的なゼミだったので、とって感慨深い部屋だった。


その他にも、ポツダム会談の際に米英ソの代表団の控室にも入ることが出来た。ここは本当に国際関係勉強してる人にとってテンションがあがらざるを得ん宮殿だと思う。

控室の部屋割りもおもしろかった。
ポツダム会談の部屋には二つの扉があり、片方はソ連、もう片方は米英の部屋に通じている。この微妙な心配りがすごく国際関係を勉強していて大事だと思ったので、自分は本当に交渉が行われていたんだと、自分はそこにいるんだと強く実感出来た。


宮殿はそんな感じだった。
宮殿の外は庭園があって、夏に来たらめっちゃ綺麗やろなーって思った。

いやーしかしここで日本の戦後が決まったんやなと思ったらほんまに考えされた。
ハイポリティクスとゆう言葉を意識せざるを得んかった。
まぁそんな感じで最高でした、ポツダム観光。

ポツダムのアディダスストアで黒のナイキの靴を衝動買いしたことは秘密である。

おわり

2012年3月1日木曜日

感想ofドイツ

高校に入って、それまでやってた野球を辞めた。その時ぐらいにWikipediaを知り、著名人をwikiりまくった。
その時ビートたけしとかおれが好きな著名人はほとんどが偏差値の高い学校に行ってたことを知った。勉強をそれまで全くしたことがなかったので、これはかなり衝撃で、受験勉強をする時の動機になった。

勉強するにはやはり難しい本を読まなければと思ったおれは、なぜかWikipediaでしった、ヒトラーの「わが闘争」を読もうと思い立った。遅れてきた中2病だ。
何はともあれ三巻ぐらいあった「わが闘争」を高2ぐらいまでには読み切った。「わが闘争」のドイツのイメージをいまのドイツに当てはめたりはしないけど、「わが闘争」の内容を実現させた後のドイツがどのようなものかについてすごく興味があった。だから自分がドイツを観光したことはすごく感慨深いものなのである。


ドイツ。
大学になってから少し世界が広がり、ドイツはヨーロッパ随一の経済大国ということを知った。現在ユーロ危機の真っ最中だが、どの国もドイツの経済に頼りにしているみたいな記事を目にしたこともあり、ヨーロッパの経済大国とは一体どんなものなんだろうとわくてかしながらワルシャワを発った。


ワルシャワからベルリンまで電車で5時間弱ぐらいだった。山も大きな川も無かった気がする。地続きで国境が接しているというのは自分には一生分からんような気がした。

電車から横目で見ていた風景がだんだん都市っぽくなってきた。そろそろベルリンかなーと思って街をじーっと見てみると、落書きや小屋みたいなバラックの群が見えた。まぁそうゆう地域もあるかと思って見てたけど、線路沿いにそうゆうバラックの群が続いていた。日本にもそうゆうのがあると思うけど、なんか違って見えた。

ドイツは経済大国ってゆう先入観があったからかな。でも経済大国ってゆうことは逆に競争が激しいとゆうことやから、まぁそれが経済大国としての運命かーと思った。
でもそれにしても落書きが多かった。なんでか分からんけど、ほんまに落書きだらけ。駅とか、電車の中にまで落書きだらけだった。ほんまに汚いと思った。

ヨーロッパの経済大国がこれかよ!みたいな。おいおい。大丈夫かよヨーロッパっておれは思った。
アジアの世紀が始まる予感がバシバシと感じられた。

2012年2月25日土曜日

壊されたワルシャワ、取り戻したワルシャワ

21日にワルシャワに着いて、22日は観光じゃなくて日本人留学生の人たちと飯食ったりスケートに行ったりした。その日本人留学生の1人の子がゲットーとかワルシャワ蜂起の博物館の場所とかを教えてくれた。ゲットーがあった当時の建物もあるということも教えてくれた。絶対に行かねばなーと思った。でその日は日本人留学生のお世話になりまくって終わった。


23日はそのゲットーと、ワルシャワ蜂起博物館に行った。

当時のまま残ってるゲットーは地図で見る限り市街地の真ん中、銀行とかホテルとか、日本でも大きいと思うぐらいのビル群の中にあった。

向かっている途中、こんなビル群の中にあるはずが無いと思って探していたとき少し不安だった。ビル群の中を歩いていたら大きな写真を掲げた古い建物があった。それが現存しているゲットーだった。
写真はユダヤ人で、建物はかなり老朽化していた。二棟向かい合って建てられていて、片方は取り壊していた。留学生が言うにはあと1,2年で取り壊されるらしい。自分は何というタイミングで来てしまったんだと思った。


ゲットーの周りは銀行やホテルが立ち並び、ワルシャワ中央駅からも近い。ゲットーを保存するよりも壊して、新しいビルを建てた方がワルシャワにとってプラスになるんだろう。
ゲットーは民族主義の負の歴史。早く忘れてしまいたいんだろう。負の歴史として視覚化されているのはやはり辛い。

辛いことを忘れること。見ないようにすることは悪いことではない。自分も原発事故や放射線のニュースとかが早くテレビから消えて欲しいと思ってしまう。いちいち悲しい気持ちになってしまうからだ。ワルシャワに住んでいる人たちもゲットーの建物を見るたび、何かネガティブな思いを持ってしまうんだろう。歴史的に価値があっても、現地に住んでいる人のことを第一に考えなければならないと思う。だからゲットーを取り壊すことは正しいとまでは言えないが、間違っているとも思えなかった。



そっからワルシャワの旧市街をぶらついた。ワルシャワの旧市街は見た目がとても新しい。なんでかなと思って地球の歩き方を見てみると、旧市街はほとんどワルシャワ蜂起の影響で建造物が崩壊しているらしかった。
おれは戦争後に新しく旧市街を作ったことに対して、すごく違和感を持った。戦争は国をリセットさせることだ。まして市街地が破壊され、たくさんの犠牲者を生み出し、ドイツやソ連に侵略されるという経験もしたのだから。
そしてリセットされたなら、新しくアイデンティティを作るべきだ、昔の建造物を作るなんて国の将来を考えていないと思った。敗戦の後、更地になったならものづくりなどに投資をすべきだと思った。旧市街を作り直しても、それは観光資源にしかならないから、収入が不安定になって、効率よく経済が回らないと思った。

その意見を京都出身の友人に話したら、建造物は地元の人たちの誇りや伝統を体現しているんだみたいなことを言っていた。なるほどなと思ったけど、少し腑に落ちなかった。


そんなことをバスで話して、ほんでワルシャワ蜂起博物館に行った。ワルシャワ蜂起とは、第二次大戦中にワルシャワのゲリラがソ連と組んで、ワルシャワを占拠していたドイツを倒そうと目論んだ戦いのことです。詳しくはwikiのワルシャワ蜂起で。

その博物館の中に入ってすぐに、破壊される前のワルシャワ市内の大きな写真があった。そこに映っていたのは、ただの普通の市民の生活だった。
クソがきがお母さんに手を引っ張られていたり、スーツ着たおっさんが歩いていたり、トラムってゆう路面電車が走っていたり。

おれはそこにワルシャワにとっての当たり前の生活を見た。その写真を見てこみあげてくるものがあった。ワルシャワの人たちが旧市街を復興させたのは、ワルシャワの旧市街は自分たちにとって当たり前のものというか、無くてはならないもののようなものだったのかなと思ったからだ。
誇りとかアイデンティティとかそんな修飾された言葉なんかじゃない。もっと当たり前のもの、人間が飯を食ってクソをするようなもの。旧市街はワルシャワ市民にとってそれぐらい大事な、あって当然なものだったのかなと思った。ワルシャワの人たちは当たり前を取り戻すために旧市街を作り直したのかなと思った。

博物館のなかに、ワルシャワ蜂起で実際につかわれていたポーランド国旗があった。その国旗はドロドロだった。ポーランドの人達は独立のために懸命に動いたのだなと。国が独立していることは普通のことじゃないんだとつよく訴えてた感じがした。
この旗をなびかせるために人がたくさん死んだ。また、そんな些細なことを阻止するために、人を殺した。


そんなワルシャワだった。
あと日本人留学生の皆様方が現人神でした。

24日のいま、ベルリンにつきました。明日からがっつりベルリン観光します。

2012年2月21日火曜日

アウシュヴィッツの感想

この旅で一番行きたかったところ、アウシュビッツに今日いってきた。

アウシュビッツに行ったらきっと食う気分じゃなくなると思ったから朝からケバブを食べた。コーラも飲みながら。ただのデブ。
バスの中でケバブを食べたのだが、車中は暑いしケバブはピリ辛だから汗だくになりながら食べた。こんなけ食べたら食欲なくなっても大丈夫だろうと思った。

クラクフからバスで2時間ぐらい。アウシュビッツ行のバスの社内は平日なのに満員だった。クラクフにもゲットーがあったから、アウシュビッツに連行された人たちもこの道を通ったのかなとか思ったけど、連行された人たちは電車で連れて行かれたことを忘れていた。でも密閉された状況は電車もバスも同じだ。でも連行された人たちの気持ちなんか分からん。きっと辛いだろうから分かりたくもない。だから着くまで爆睡した。



眠りの谷間が見えてるけど、その谷に落ちはできないような感じで寝てたらアウシュビッツに着いた。着いて圧倒されるようなことはなかった。平地がずっと続いていて、レンガ造りの建物が密集しているかと思ったらすっぽりとない空間もあった。とりあえずアウシュヴィッツへの入り口を探した。

受付をすぎたらあの有名な門があった。アウシュヴィッツの「B」が反対になっている門だ。
あーおれはもうアウシュヴィッツにいるんかとぼんやり思った。その門を超えたら鉄条網がぐるりとレンガ造りの建物群を囲いこんでいた。パシャっと写真を撮ったけど、この鉄条網を脱走しようとして死んだ人は何人いるんかなーとか考えた。レンガ造りの建物は昔連行された人たちがいたけどいまは多くが改修されて展示場になっている。

とりあえず門に一番近い建物に入ってみることにした。そこはポーランドがとアウシュヴィッツの関係?みたいなのが写真とかで展示されていた。ポーランドは地理的に非常に大事な地域だ。東にロシア、西にはドイツ。この両大国に挟まれていて、戦争が始まるまでは大国の緩衝地域となるのだが、戦争が始まってしまうとロシアとドイツの真ん中だから戦地になってしまう危険な地域だった。ヒトラーはポーランドを占領することでロシア進出の足がかりとするつもりだったのだろう。ヒトラーはポーランドを占領した。しかしポーランドのレジスタンスが国内で活動することになる。
自分が驚いたことはアウシュヴィッツでもちろん多くのユダヤ人が虐殺されているのだが、ポーランド人も多く虐殺されていたのだ。ポーランド人はヨーロッパ戦線にも進出しナチスに対するレジスタンスとして勇敢に闘っていたのだと展示されていた。
ふむふむとか思いながら建物内に地下に通じる階段があった。ふらっと行ってみると何もなかったけど、ひんやりとした空気と午前中とは思えない暗さだったからすぐに出た。そのままそこにいたらもう帰って来れない気さえした。怖かった。一目散に外にでようとしたけど、建物の構がどの部屋も同じで、何度も間違えた。

不快だった。髪の毛とかメガネとかがある部屋にも行った。拷問が行われた部屋とか焼却場。数千人殺された棟と棟の間の壁。まだまだ処刑場みたいなのはたくさんあったけど省く。アウシュビッツは2時間ぐらいで見終えた。だいぶ不快なものばかり見たけど、腹はまずまず減っていた。

施設の中には犠牲者の写真が壁一面に貼られていた。全員死んだんだろうな。なんで殺されなければならんのか。全く分からん。写真もたくんあった。列に並んでいる人たちがいてドイツ兵が銃を構えて撃とうとしてる写真。飢えて訳わからんぐらい細くなった子ども。なんで殺されなければならなかったのか。
そう思った時はさすがに涙が出た。
最後に地下壕を見て、アウシュビッツの施設は見終わった。



アウシュヴィッツの横にビルケナウという施設がある。この施設も家とかガス室とか焼却炉とかがあった。アウシュビッツよりもその数は多くて、ここはアウシュヴィッツよりもだいぶん広い。

有名な線路があった。
片方は強制労働させられる線路。
片方はガス室に行く線路。
その線路の上を歩くことが出来たから歩いてみた。連行させられた人たちはどんなことを考えていたのかなと思いを馳せてみたけど、やっぱり全くわからなかった。ビルケナウはほとんどの施設がナチスとユダヤ人たちに戦争が終わった直後に壊されているから、広大な土地の中に施設がぽつぽつあった。ここで人が住んでいて殺されたとは思えなかった。



ビルケナウもほとんど見た。
腹は朝の予想に反してめちゃくちゃ減っていた。だからアウシュビッツから帰ったあとあほほど食べた。どんなけ悲しい気持ちになっても結局腹はめちゃくちゃ減った。


アウシュビッツとかビルケナウとか特に感想なんかない。


余りもにも殺風景な風景とあっけなく崩れた施設。その景色に似合わぬ大虐殺。

一晩明けたけど、まだ整理がついてないんかな。
まとまらないぜ。写真も撮る気が起こらなかった。写真がiPhoneの中にあることさえ嫌だった。
今日もケバブ食べた。
旅行で痩せるつもりがあほほど太りそうだ。
今ワルシャワ行のバスです。

2012年2月20日月曜日

クラクフのユダヤ・ゲットー

世界ふれあい町歩きという番組がある。世界各地の伝統的な町を散歩して地元の人たちとその地域の歴史とか風俗を話すってゆう内容。
自分の父親がその番組の大ファンで、毎回DVDに保存している。その番組でポーランドのクラクフを散策した回があった。市場を回って、昔からある店で話しを聞いたり、古くからある建造物を訪問したり。クラクフは幸運なことに第一次、第二次両大戦の被害をほとんど受けていない。実際に自分もフラフラしたけど、本当に美しい町だった。
その番組の中でも大戦の影響を受けなくて本当に幸運だったみたいなことを言ってた老人もいた。ここまでなら、いい意味で本当に美しい町だったなって感じで終わりだったろう。でも地球の歩き方にかつてのヨーロッパ最大のユダヤ人居住区があったことを知った。ユダヤ人地区には時間があれば行こうっ感じの軽い感じだった。

ヴァヴェル城というこれまた美しい城を訪問したあと、時間があったからとりあえず行ってみることになった。
ユダヤ人居住区だから何かしら建物がユダヤっぽいのかなと思ったらそんなこともなく、クラクフの美しい街並みだった。違う所はちょろっと建物が傷んでたぐらいだった。ユダヤ人居住区って書かれた表札が無かったら分からないぐらい。多分ユダヤ人っぽくしたら周囲の景観が崩れるからユダヤ人がユダヤ文化に則って作りたくても無理やったんやろな。景観とかなんじゃそれ。いま景観が悪くなるからモスク建てるなって問題がある。時代は繰り返されてる。

とりあえずシナゴーグ、ユダヤ教の教会を探した。それはすぐに見つかったけど、シナゴーグの横にナチス反対だとか、ユダヤ教のシンボルである六芒星に落書きされてるレストランがあった。レストランも落書きを消せばいいのにと思った。ユダヤ人も平等な権利というか、ユダヤ人の差別が本当にあるなんて思いたくなかったから。人種とか宗教で差別される現実なんか見たくなかったから。

もうこの時点で自分はもうユダヤ人の現状が分かったからある程度ユダヤ人居住区のことは満足した。地球の歩き方にシナゴーグを改修してミュージアムにしてる施設を見つけてしまった。見つけたからには入らなあかん。おしっこ漏れそうやったけど入った。中には昔から使われてる祭祀用の冠とかロウソク立てとかがたくさんあった。ユダヤ人が辛い目にあったことを展示してるのかなと思ってたから想像してたのとは違うなーと思いつつ施設内を歩き回った。

人物の写真と長い英文とポーランド語が書いてるポスターが10枚ぐらいあった。英文なんか読むのだるいとか思ったけど、頑張って一人分だけ読んでみようと思った。

その人は学校の先生らしかった。学歴とか人柄とかを書いてた。で最後にドイツ兵に殺されたって書いてあった。マジかと思って二人目読んだら二人目はナチスの秘密警察ゲシュタポに捕まって死んだと書いてあった。三人目もドイツ兵に殺されてた。10枚ぐらいあったの全部読んだ。海外に亡命した人、ドイツ兵から必死に隠れてた人、殺された人。全員ドイツ兵もしくはゲシュタポに追われたり殺されたりしていた。

そのポスターは全員学校の先生だった。学歴、人柄が載ってた。でも先生ってこの10数人の他にもいっぱいおったはず。
アウシュビッツでは150万人ぐらい殺されたらしい。もし自分が死んだら小学校、高校、大学の友人達が何らかのことを感じるだろう。でほんのちょろっと記憶に残ると思う。でも150万人ぐらい死んだら、自分を知ってる人も死んでしまって、誰も自分を知らんないことになる。

ポスターに書いてあった10数人のことは誰が覚えたのだろう。10数人の先生のポスターに書かれてあることは全部違っていた。優しい先生もいれば、すごく厳しい先生もいたって書いてあった。

誰からも忘れられて、子どもも作っていなくて、命の連鎖を止めさせられた人が何人いたのだろう。記憶に残らなくても、子どもを作ることによって自分は存在すると俺は思っている。この連鎖を止めさせられてしまったら自分は完全に消える。

誰からも忘れられ、完全に無くなる。150万人っていう数に溺れてる人が何人いるんだろう。
なんかもう虚しくなった。

友人がめし食おうって言うからユダヤ人居住区で飯食った。具が全く無いムラサキ色のスープ飲んだ。美味。

明日アウシュビッツに行く。
どうなるんやろ。
今日は悲しみの旅だった。
とか言いながらブダペストで買った最高にうまいトカイワイン飲みました。

皆様こちらは夜の0時半です。
おやすみなさい

2012年2月19日日曜日

ヨーロッパの国境、民主主義

16日になんやかんやありまくってハンガリーに着いて、ちょろっとハンガリー観光して今ポーランドにいます

ハンガリーとスロバキア、スロバキアからポーランドの国境を越えた。地続きになってて、国境を越えた感じなんか全く無くて、言われなければ気付かないくらいあっさり国境を越えた。こんなに広大な平たい土地があったら、そりゃヨーロッパを統一することは不可能だなと思った。ずっと続く地平線。領土を大きくしたいっていう野心的な指導者にとっては、こころ惹かれるものだったんだろうなと思った。そんな野心は戦争をもたらすだけだから、間違った思いではあるけれど。

グロティウスが領土に基づく国際法をつくった、国際政治のあり方を変えたと国際法の授業で学んだ。でもiPhoneとかGPSがない時代で意味のある使い方をしていたと考えると、先人はやっぱりすごいなとおもった。

自分が見たスロバキアは雪で覆い尽くされていた。民家がぽつんぽつんとあって、しばらく雪だけの景色が続いて、またぽつぽつと民家があるっていう風景だった。でもバスの中で寝てたから、実際はもっと都市化してるのかもしれんけど

自分は自己実現とかでヨーロッパ中が溢れかえっているのかと思ってたけど、それはただのステレオタイプなんだなと思った。スロバキアのぽつんとした民家に生まれたらチャンスはやっぱ減る気がする。


領土の境界線、僻地に住む人びと。これが主権国家というものかと思った。ヨーロッパにこんな国があるのかと思った。

しかしただの勉強不足です
ただの感想です